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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.509 2017.2.11  

「 1984年の新日本プロレス(3) 」

(前回からの続き)

新日本プロレスでの選手大量離脱の20年後、我が社でも全く同じ雪崩現象が起こりました。
「社長10年史」(FILE No.159174 参照)に詳しく書きましたが、親父の時代の番頭だった役員が複数の社員を連れて独立したのです。
言っては悪いのですがこの人だけは高い給料をとって仕事を全くしない無能役員の典型、我慢に我慢を重ねて来た私ですが、遂に堪忍袋の緒が切れて営業本部長から降格させた事で逆恨みをされる形となりました。
能力に関係なく年功序列で古い人を高い役職につけて来た弊害が私の代になって一気に噴出したわけで、私にすれば迷惑な話ですが、それにしても、あれだけ楽をして高い給料を得ていた人が辞めると言い出すのは全くの想定外でしたので内心はVサインでした。何しろ例え本部長から降格しても高い給料を払い続けなければならない事は変わらないのですから。
しかしまさかそんな人に人生を賭けてついていく連中がいた事は、これまたカルチャー・ショックで、特に当時あった包装機械のメンテナンス部門の人間が三人一度に辞めたのには困りました。普通の仕事と違ってメンテナンスの技術は簡単に継承出来るものではないからです。
もっとも私に言わせればこの連中は機械の修理は上手くても自分自身が人としては欠陥品、ろくに挨拶も引き継ぎもせず顧客名簿や会社の備品を盗み出していくような質の悪いヤカラが辞めてくれた事は長期的に見ると大変プラスになったのですが、その当時はそんな余裕もありませんでした。

当社では毎年期の初めに全社会議を行い私が「中期経営計画」の発表をしていますが、2004年4月1日、大量離脱直後の会議の日は今思い出しても悲惨そのものでした。
何しろ見渡すと会議室に座っている社員の大半が入社半年〜1年の新人ばかり、絶対に口には出せないもののいかりや長介の如く「駄目だこりゃ」の心境で心の中では泣いていたものです。
「新人ばかりになってタミヤがやっていけるわけがない。」謀反を起こして辞めていった機械部の一番悪党の捨て台詞を思い出し、とてつもない不安と恐怖に苛まれました。

選手の大量離脱から年が明けた1985年のプロレス界、新春のシリーズから新日本プロレスと全日本プロレスははっきりと明暗が分かれました。
契約問題が無事クリアされ、正式参戦した長州軍団(ジャパンプロレス)の活躍によって話題沸騰の全日本は全国各地で大盛況、長州力対ジャンボ鶴田、あるいは長州力対天龍源一郎など、これまで団体の壁に阻まれていた夢の対決が実現したのですからそれも当然の事でした。
一方、明らかに戦力不足の新日本の会場は閑古鳥が鳴く状態、騒動直後は心配して会場に駆けつけたファンもいっこうに手が打てない新日本に対し絶望し、ファン離れが加速化していきました。

この頃の週刊ファイトに掲載された小さなコラムで、私の好きな猪木さんのエピソードがあります。
長州軍加入で動員絶好調の全日本でしたが、北九州で珍しく?不入りだった会場がありました。
その事を新日本のある社員が社長の猪木さんに「嬉しそうに」報告したのです。
「全日本は観衆○○○人と発表していますが実際は×××人しか入らなかったそうですよ。」
社員のこの報告に猪木さんはどう反応したでしょう?
答えは…何と、烈火の如く怒って社員をしかり飛ばしたのです!
「他所の事なんかどうでもいい!向こうが客が入らないからってうちが得をするわけじゃないだろう! そんな事より今どうすべきかなんだ。業界全体が潤わなければ新日本の発展もない。」
こんな内容の言葉で一喝したそうですが、猪木さんにすれば一連のゴタゴタに嫌気がさしたファンがプロレスそのものから離れていき、プロレス界が大不況に陥る事を予知し危機感を覚えていたのだと思います。
ファイトの編集長はコラムの中で「さすが、だと思った。「全日本が好調なのは長州が参戦した最初のうちだけ、そのうち駄目になるだろう」と社員と一緒になって笑っていたとしたら猪木の値打ちなどなかったろう。」と結んでいました。
ああ、それに比べて何処かのユーザーが倒産して競合する同業が引っかかったなどと言う話が聞こえて来たら思わず「うぷぷぷ」と口元がにやけてしまう私、猪木さんと比べて何とスケールの小さい事よ(苦笑)。

深刻な興行不振に崖っぷちに追い込まれた新日本はなりふり構わず、引き抜きはしないと言う公約?を破ってブルーザー・ブロディを獲得
(FILE No.420,421 参照)、また手薄な日本人選手を補強する為、全日本から海外遠征中の越中詩郎、桜田一男(ケンドー・ナガサキ)とも契約しました。
翌86年には興行能力を失ったUWFと提携、さらに87年にはまさかの展開、ジャパンプロレスの分裂により長州軍団がカムバック、前田日明、長州力らかつてのスターが戻って来た事により興行人気を再び復活させる事に成功しました。
この例に習って当社でもかつての離脱組を呼び戻せば?と人に言われた事がありますが、前田や長州には人気・実力と商品価値があったから猪木さんは広い心で再び受け入れたわけで、能力もなく人間性も最悪の当社の離脱組とは根本的に違うのです(笑)。
戦力的はかつてないほど充実した新日本でしたが時代の流れの中テレビ視聴率の方は思ったほど回復せず大苦戦、企業努力も虚しく88年遂にゴールデンタイムから降格の憂き目に合いました。視聴率云々と言うより、裁判沙汰などあまりにもゴタゴタ続きのマット界を企業イメージの悪化を恐れたスポンサーが敬遠した事が大きな理由と言われており、結果的に猪木さんの悪い予感は的中したわけです。
再び大ピンチに陥った新日本でしたが、ここに救世主が現れました!

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 若手時代の橋本真也に
アドバイスを送る猪木

大量離脱直後のカードを組むのにも四苦八苦していた苦しい時代、マッチメイクを担当していたミスター高橋は坊主頭の新人たちが何とか一日も早く一人前に育って欲しいと願い続けていたそうですが、猪木社長、坂口副社長ら首脳陣に先見の明があったのは有望な若手たちを早いうちから海外に武者修行に出発させ、経験を積ませた事でした。
そしてこの種まきの成果がゴールデンタイムから降格して危機に陥った新日本の神風となりました。離脱騒動の年にデビューした橋本真也、武藤敬司、蝶野正洋の「闘魂三銃士」が海外修行を終え大きく成長して凱旋帰国したのです。

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 橋本、武藤、蝶野、
闘魂三銃士の台頭で再び
黄金時代に突入!

平成時代に入りこれまで常識では考えられなかった東京ドームへの進出(FILE No.358参照)を果たし定着させる事に成功しましたがその主役となったのが彼らで、世代交代による新規ファンの獲得によって新日本は再び黄金時代に突入したのです。

苦しい時期に惜しまなかった将来への先行投資、それによって生まれた大きなリターン、この新日本の戦略は私にとっても大変参考になりました。
人がいなくなった今、例え時間がかかっても新人の育成に軸足を置こうと決意し、それから悪戦苦闘の日々が始まりました。
2005年4月1日、一年ぶりに再びやって来た全社会議の日、会議が始まって暫く経った時、私はある変化に気がつきました。
座っているメンバーは昨年と同じなのに明らかに雰囲気が違って感じられたのです。
顔つきが変わったと言うか、物凄くたよりになる感じがして、例え苦しくてもこれならやっていけるかもしれないと手応えを感じ、思わず涙ぐみそうになりました。
早いものであれからもう12年、あの時とはメンバーも随分変わりましたし、今も苦しい状況である事にそう変わりはありませんが、あの日の感動は今も忘れていません。
翌2006年には当時の最大のお得意先との取引が終了、再び大ピンチに陥りましたが(これまたゴールデンタイム降格時の新日プロと状況が酷似)、社員が一致団結してくれて苦境を乗り越え、わずか4年後には過去最高益を記録する事が出来ました。
人がいなくなった時には血を吐くような苦しい思いをしましたが、若い社員の成長により結果として風通しの良い組織に生まれ変わる事が出来ました。やはり企業は人が全て、この言葉に尽きます。
新日本プロレスの歴史から学びとった事をこれからも忘れずに、どんなに苦しい時も人財育成に力を入れてこれからも前進していくつもりです。

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