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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
 FILE No.421 2015.4.25

「 運命(2)

〜 闘魂vs超獣初対決30周年記念 〜

(前回からの続き)

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 来日したブロディは
絶好調ぶりをアピール
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 連日のトレーニングでコンディションは完璧
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 ショーマンシップも
旺盛、桜の木の前で
パフォーマンス

1985年4月18日、「燃える闘魂」アントニオ猪木と「超獣」ブルーザー・ブロディの 運命の初対決の日がやって来ました。
決戦8日前の10日に来日したブロディは連日のトレーニングでコンデションは完璧、15日には後楽園ホールでかつての異種格闘技戦を彷彿させる(プロレスでは異例の)公開スパーリングが行われ、ここで新日本の中堅選手二人を立て続けにKOして絶好調ぶりをアピールし、3月21日以来となる猪木との視殺戦を展開、決戦ムードは最高潮となりました。

いよいよ本番当日、世紀の大一番を観ようと両国国技館には札止め超満員の大観衆が集まりました。
選手の大量離脱で年明けから苦戦していた新日本が見事な復活を見せたわけですが、この時舞台裏でとんでもないハプニングが起こっている事をファンは知る由もなかったのです…。

まず最初の異変は試合前の事でした。
ビッグマッチの日ほどレスラーの会場入りの時間は早いものですが、この日は他の全選手が到着しているのに夕方になっても主役の猪木とブロディがともに姿を見せません。
5時、6時、遂には第1試合の始まる6時半となっても二人が現れない異常事態に記者やカメラマンたちが騒ぎ出しました。
週刊ファイトの編集長である井上氏は(何かがあったのだ!二人は何処かで話し合っている!)と直感しました。
結局猪木が愛車リムジンで会場に着いたのは6時49分、遅れる事4分、ブロディも無事到着しました。
(二人が話し合っていたのは、ブロディが宿泊している京王プラザか新日本本社のどちらかだろう。話し合いがつき二人は大慌てで別々の車に乗った。ブロディが猪木に4分遅れたのは、出るのがそれだけ遅れたのか途中の交通事情が原因だ)と推察した井上氏でしたが、当の猪木は「チェーン持ち込みの問題でトラブルがあって、精神的に疲れ果ててしまった…」と言葉少なに語りトレーニングウェアに着替えて準備運動を開始しました。

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 試合前に奇襲を受けて
負傷した猪木は半狂乱

練習を切り上げた猪木は大一番の前だと言うのに非常に上機嫌でリラックスしていたので、井上氏はトラブルが無事解決したからだと解釈していましたが、ここで第二のハプニングが発生しました。
8時29分頃、突如ブロディがチェーンを持って日本側の控え室に乱入、猪木を襲撃して滅多打ちにしたのです。
この暴挙により猪木は左肘を負傷するアクシデント、一時大パニックとなった控え室でブロディが去った後の猪木はコンクリートの床にうずくまって「あの野郎、ぶっ殺してやる!」と声にならない声をあげ嗚咽を繰り返しました。
井上氏自身も猪木があれほど取り乱し半狂乱で泣き叫ぶ姿を見るのは初めてで、心身ともにこの状態でまともに試合が出来るのか、誰もが心配していました。

9時8分、いよいよメインエベント、ブロディがテーマ曲「移民の歌」に乗ってチェーンを大きく振り回し、「ウォッ!ウォッ!」とお馴染みのブロディ・シャウトで入場、続いて爆発的なイノキ・コールの大合唱と「炎のファイター」のテーマ曲の中、猪木がリングイン、応急処置のテーピングがされた左肘が嫌でも目を引きます。

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 全体重をかけた
ブレーンバスター
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 手負いの猪木は
アームブリーカー
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 泣きながら?パンチを
見舞う猪木
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 必殺・延髄斬り!
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 片腕が使えない猪木だが
驚異の精神力で
ブレーンバスター
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 ブロディの右脚に狂った
ようなキックのラッシュ
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 キックの集中砲火に流石の
超獣も悲鳴を上げる
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 猪木の闘魂完全復活!

9時13分、運命のゴング、手負いの猪木が最初から飛ばせば、ブロディもパワーファイトで猪木を追い込みます。
ブロディの巨体をロープ際まで押し込み必死のナックルパンチを叩き込む猪木、これは試合を間近で観た一部の人しか気がつかなかった事ですが、パンチを振るいながら猪木は涙を流していました。果たして試合中の猪木の涙の意味は…?

試合後半、ブロディの必殺技であるキングコング・ニードロップを間一髪自爆させた猪木は、かつてのアリ戦を彷彿させるかのようにブロディの右脚めがけてキックの集中砲火を開始しました。
狂ったような一点集中のキックの雨に、タフなブロディも流石に悲鳴をあげて逃げ回りますが、それでも猪木のキック攻撃は止みません。
結局、この試合で猪木がブロディの脚に叩き込んだキックの数は実に56発!
試合後にブロディは雑誌社の依頼で書き残した手記の中でこのように書いています。
「俺の12年に渡るプロレス生活のキャリアを通じて、あのように右脚だけに集中したキック攻撃を受けた事などなかった。そのような発想を持つレスラーなどアメリカにはいなかったからだ。シュッ、シュッという音とともに奴のリングシューズの先端が俺の右大腿に三つの切り傷をつけるのを感じながら、俺は何か神秘的な東洋の武道家と戦っているような錯覚さえ覚えた。」
試合は両者が場外にもつれて力尽き、26分20秒両者リングアウトとなりましたが激闘に酔いしれたファンからは試合後もイノキ・コールが爆発、この時期の猪木は体調不良から限界説が囁かれておりブロディ戦を危惧する声もあったのですが、皆の予想を裏切り猪木神話の完全復活を印象付けた試合となりました。
私も今回、この原稿を書くに当たりノーカットで久しぶりに全編を視聴しましたが、当時の感動が蘇って来て胸が打たれました。

試合前のトラブル、控え室で襲撃された後の号泣、そしてリング上での涙…非常にミステリアスな試合が終わり、控え室に引き上げた猪木は「今日は試合前からチェーンを持ち込む、持ち込まないのゴタゴタがあって戦いの前に精根尽き果ててしまったが…今思えばそれが奴の作戦だとしたら実に巧妙だ。」とのコメントを残しました。

一方のブロディですが、前述の手記の中から核心部分を要約して抜粋して見ましょう。

            ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

(前略)新日本のオフィスの人間二人が試合前夜にわざわざホテルまで訪ねて来て、「明日の試合にチェーンを持ち込む事を禁止する。もしチェーンで新しいスモウ・アリーナ(両国国技館)の器物を破損したら新日本は二度と国技館を借りられなくなるからだ。」と通達して来た。 こんな馬鹿な話があるか。現に俺は一ヶ月前の3月9日(全日本プロレス)にも堂々とチェーンを持ってスモウ・アリーナで試合をしているが、何のペナルティも受けていない。全日本で許される事が新日本では許されないのか?
彼らとの討論は何と決戦当日の朝4時まで続いたが「ノー!」と拒絶し続ける俺に二人は「この要請を君がどうしても拒否するなら重大な結果をもたらすだろう」と意味不明の捨て台詞を残して帰って行った。
こんな馬鹿げた話し合いで時間を費やした事に俺は無性に腹が立ち、この理不尽な申し入れの背後に猪木の顔を感じていた。

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 右膝のダメージが大きい
試合後のブロディ

新日本からの迎えの車は午後5時にホテルに来る事になっていたが、俺はホテルにいなかった。すっぽかしてやったのだ。俺にしても一時は興奮のあまり試合をキャンセルして帰国しようかとさえ思ったのだがファンを裏切る事は出来ない。思い直した俺が会場に着いたのは午後7時だった。猪木はさぞイライラした事だろう。俺が会場に現れなかったら大変な事になるからだ。 だが俺もこのままの気持ちで試合に臨む事は出来ない。何処かで何かのアクションによって乱れた精神状態を晴らしておかなければ良い試合は出来ない。
そこで猪木のドレッシングルームを襲撃する事にしたのだ。
猪木は試合後、「チェーン事件、遅刻、控え室襲撃はブロディが考えた心理戦かもしれない」と語ったそうだが、冗談ではない。心理戦を仕掛けてきたのは猪木ではないか。
その証拠に俺がチェーンを持って登場しても何のトラブルもなかったではないか…。(後略)

            ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

流石に試合直前までの猪木との密談については一切触れていませんが、チェーン禁止でそこまで揉めたと言う話はどうも説得力に欠けます。
ブロディ自身が主張するように直近の全日本での試合、また、この4.18の後もブロディは何度も両国にチェーンを持ち込んでいるからです。
トラブルが起こった事がマスコミに嗅ぎつけられた時の為にその原因はチェーン問題という事にしておこうと言う密約が、ブロディと新日本側の間にあったのではないか、確かな根拠はないものの、私にはそんな気がしてなりません。
また、一部で活字になった日本テレビとの契約問題、つまり全日本を放送している日本テレビが試合に出る事はまかりならぬと通告して来たという説も今ひとつピンと来ません。テレビ局が外国人選手にそこまでの強制力を持つ話など聞いた事がないからです。

新日本プロレスの取締役、山本小鉄は後年インタビューや著書の中で当時を振り返ってこう語っています。
「両国の試合当日になってブロディが試合に出ないで帰国するって言い出したんだ。
真っ青になってブロディを説得する為に京王プラザに向かったけど、途中半ば本気で金物屋に寄って包丁を買おうかと思ったよ。 ブロディをスカウトして来たのは自分だからね。もしブロディが欠場したら自分が責任をとってリング上で腹を切るぐらいの覚悟だった。 ホテルの部屋で通訳を通じて何を喋ったかなんて覚えてないけど、こちらの迫力に気圧されたのか、どうにかブロディは会場に行く事に同意してくれた。」
よほど腹に据えかねていたのか、小鉄は「その時の自分の心境を思い出すとプエルトリコでブロディを刺殺したプロモーターの気持ちがわかるよ。」とまで言い切っています。

当時、トラブルの発生を最初から掴んでいたのが猪木と懇意にしていた東京スポーツの永島勝司記者でした。
発端はブロディから東スポの山田隆記者(故人)に試合前日の17日にかかって来た呼び出しの電話でした。
「おい永島、ブロディが何か話があると言うんだ。どうせ飲みに行こうぐらいの事と思うけどとりあえず行ってみるよ。」同僚の永島氏にそう言い残して山田氏は社を出て行きました。
山田氏は全日本のテレビ中継の解説者を務めていた事もあり、ブロディとは旧知の間柄だったのです。
それから三時間後、その山田氏が興奮して電話をして来ました。
「ブロディが明日の試合に出ないと言っている。何が理由かよくわからんがとにかく新日本の関係者に至急連絡をとってくれ。下手すると大変な事になりかねないぜ。あいつは過去にもアメリカで試合をキャンセルした前科があるからな。とにかく急いでくれ!」
あいにくその日の新日本は茨城県古河市で試合を行っており、一行が東京に戻って来るのは深夜になるので、永島氏は新日本の当時の社長室長に連絡をとって現場の猪木にブロディの件を伝えてもらいました。
この日の深夜、急遽山本小鉄がブロディを訪ね一度は元のさやに収まったかに見えたものの、翌朝、つまり試合当日ブロディは再度山田氏に会談を求めて来ました。
午後になり、山田氏から永島氏に再びSOSの電話が入ります。
「もう奴の言っている事がわからんよ。今日の試合には出ない、今夜の飛行機でアメリカに帰るの一点張りなんだ。もう俺の手には追えない。猪木さんに連絡をとってくれ!」
永島氏が両国に向かう猪木の愛車リムジンに連絡が取れたのは午後4時の事でした。
「ブロディがまたゴネている。このままではラチが開かない。社長(猪木)が直接ブロディに会うべきだと思う。もうそれしか方法がない!」
「う〜ん、何が原因なんだ。少し考えるよ。」
「いや、そんな時間はない。両国には1万2千人のお客さんが待っているんだ。最悪の場合は暴動じゃ済まないよ!」
山本小鉄がブロディを必死に説得していたのは恐らくこの頃だったのでしょう。
試合開始30分前の6時、猪木から永島氏に電話が入りました。
「よし、とにかく俺がブロディのところに行く。京王プラザの何号室にいるんだい?」
ホテルの裏口から人目を避けてそっとブロディの部屋へ行く猪木、もはやタイムリミット寸前、社で連絡を待つ永島氏はこの時新聞記者の立場を忘れ、猪木の友人として心配し気をもんでいたと術懐しています。
6時29分、ようやく猪木から電話が入りました。
「カタがついたよ。心配かけたね。理由は会った時に話すけど試合は大丈夫だ。それにしても大変な男だぜ。」
こうして最悪事態は回避され、繰り返しになりますが大慌ての会場入り、控え室の襲撃事件、大激闘と長い一日が終わりを告げたのでした。
その夜永島氏は猪木と会いましたが、とうとう猪木は真相について一言も喋らなかったそうです。本当にチェーン問題だったのか、テレビや契約トラブルがあったのか、ただ単にブロディがギャランティの釣り上げを狙ってゴネたのか…当人のブロディが天に召され、猪木が口を閉ざす以上真相は今も謎のままです。

ファンはご存知のとおりこの年の12月仙台で、ブロディは今度は本当に試合をボイコットする暴挙に出ました。
仙台行きの列車から降りてホテルに引き上げたブロディに猪木は「もういい、あの男は病気だよ。好きなようにすればいいだろう」とあっさりと三行半を叩きつけ追放を宣言しました。
翌86年夏には和解が成立して9月に2試合出場したのも束の間、参加するはずだった年末のシリーズをまたも来日キャンセルした事により、遂には完全に絶縁状態となり、二度と声がかかる事はなかったのです。
猪木とすれば仏の顔も三度までの心境だったでしょうが、日本における働き場所を失くしたブロディは87年、馬場に頭を下げて古巣の全日本にようやく復帰が許されました。
紆余曲折を経て再び全日本のエース外人としての活躍が期待されましたが、その矢先の88年、プエルトリコで42歳の若さで非業の死を遂げる事になるとは、これを運命と呼ぶには余りにも残酷すぎる最後でした…。

今月、ちょうど新日本が両国国技館で大会を行っていたのでTV観戦しました。
会場は現在の新日本を支える若いファンでぎっしり超満員、その熱気はブラウン管を通して十分に伝わって来ました。
30年前に始まった新日本の両国伝説、そのスタートが猪木とブロディの死闘だった事など今のファンは知らないでしょうが、私の耳には超満員の国技館に「運命」のイントロとブロディの雄叫びが聞こえたような気がしました…。

* 次回更新は5月9日(土)となります。

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