今週は正月休み中に行って来たBIG EGGこと、東京ドームがテーマです。
このブログでは北は北海道から南は沖縄まで、大小問わず日本中のプロレス会場を紹介してきましたがタイトルにまでなるのはプロレスのメッカ、後楽園ホール (FILE No.273参照)、我がフランチャイズとも言うべき大阪府立体育会館(FILE No.312参照)と今回のドームのみです。
後楽園球場に代わって東京ドームが正式にオープンしたのは1988年3月18日、4日後の21日には早くも格闘技では初興行となる、当時プロボクシングの世界ヘビー級王者、マイク・タイソンの防衛戦が行われました(相手はトニー・タッブス)
そしてこの会場にはジャイアント馬場、アントニオ猪木の両巨頭を筆頭に多くのプロレスラー及びプロレス関係者が視察に訪れていました。
試合後、記者団に囲まれコメントを求められた猪木さんは「俺もここで試合をしてみせる!」と派手にぶち上げました。
「タイソンの防衛戦も(観客は)よく入った方だと思うけど、それでもまだまだ空席が多かった。俺がやる時は一つも空けない。超満員にしてみせるよ。」
しかしこれは猪木さん得意のリップサービスだろうと誰も本気にはしていませんでした。何しろこの時代のプロレス人気はかなり苦しく、この翌月(4月)からはテレビ中継の時間帯がゴールデンタイムから土曜日夕方に降格、どんな大きな興行でもキャパシティが一万人クラスの両国国技館や日本武道館が関の山、とても東京ドームを使えるとは思えなかったからです。
モハメッド・アリとの試合を始め、誰も実現できない事に敢えて挑戦するのが猪木イズムですが、あの出来事が猪木さんの背中を押したのではないか、と当時を述懐するのが新日本プロレスでレフェリーを務めたミスター高橋です。
高橋の著書によれば、後楽園ホールで興行があった日、試合前皆で控え室にいた時、横のバルコニーから凄まじい人の波が水道橋の駅から東京ドームに吸い込まれていくのが見えたのだそうです。この日ドームでは美空ひばりのコンサートが行われていました(1988年4月11日)。
何人もの外国人レスラーを呼んでもこの頃は後楽園ホールですらなかなか満員にならないのに美空ひばりはたった一人で東京ドームを埋めてしまうという現実…高橋自身その光景を羨ましそうに見ていた中に猪木さんがいたかどうかまでは覚えていないとの事ですが、その悔しさが人一倍負けん気の強い猪木さんにドームへの挑戦を本気で決断させた事は十分考えられます。
因みに猪木さんと美空ひばりと言えばもう一つ因縁?がありまして、80年代初頭パラオ共和国が日本の著名人を招待する事になった時この二人が候補に挙がり、結局猪木さんが王様から無人島を貰う事になりました。
「イノキアイランド」と呼ばれるこの島に私もかつて二度ほど上陸しましたがひょっとしたら「ヒバリアイランド」になっていたかもしれないのです。
かくして88年秋、新日本プロレスは翌年の東京ドーム進出を正式決定、年号が平成に変わった1989年の4月24日、当時東京在住だった私も勿論行って来ました。
当日は平日月曜日の夜6時からという悪条件にも関わらず予想以上の大観衆が詰め掛け、まさしくプロレスの底力を感じました。
以後、新日本は毎年ドーム大会の開催を恒例化、92年からは開催日を1月4日に固定するようになりました。
やがては新日本以外の団体も進出するようになり、ドーム・プロレスは完全に定着したのです。
この90年代はまさにプロレス・バブルと呼ぶに相応しくドーム大会のパイオニア、新日本は遂には年に3回もドームを使うようになりました。
特に凄まじかったのが97年でこの年の新日本は「4大ドームツアー」と称して、東京ドームで2回、大阪ドーム、名古屋ドーム、福岡ドームで各1回と年6回ものドーム大会を成功させたのですからまさに夢のような時代でした。
かくいう私も92年から99年まで7年連続で「1.4」(イッテンヨン)に皆勤賞、地元・大阪ドーム(97、98、2001、2004年)は勿論福岡ドーム(93〜95、2001年)と各4度ずつ足を運んだものです。
90年代のドーム大会はいつもアリの這い出る隙間もないほどの客入りでテレビがゴールデンタイムでないハンディを背負いながら何故こんなにも人が集まるのか不思議な気がしました。勢いというのは凄いものです。
しかしこの好景気も21世紀に入ると陰りが見え始め当時の主力選手の離脱や独立、K-1、PRIDEといった新興格闘技の台頭、暴露本の影響など様々な要因により徐々にプロレス界の地盤沈下が始まります。
新日本の年3回の東京ドームはいつしか「1.4」の一回になり、他団体もドームから撤退、現状では新日本以外の団体のドーム進出など夢のまた夢でしょう。
(*2005年7月のプロレスリングノアの大会が現時点で最後)。
業界の盟主、新日本プロレスも観客動員が大変厳しくなり90年代の盛況が嘘のように広いドームにガラガラの客席…何しろドーム興行には莫大な経費がかかるので、こけるとダメージが大きく社内でも何度か真剣にドーム大会の中止が検討されたそうです。
しかし新日本は歯を食いしばって「1.4東京ドーム」にこだわり続けました。
老舗のプライドもあったでしょうし、自分たちまでがドームから撤退してしまってはプロレスのマイナー化が決定的になってしまい再浮上は難しくなるという危機感、まさしくプロレス界の最後の砦としての責任です。
継続こそ力、とはよく言ったもので近年の新日本は新しく親会社となったブシロードの営業戦略が功を奏し、棚橋弘至、オカダ・カズチカ、中邑真輔といったニュー・スターの活躍により再び上昇気流に乗り出しました。
「1.4ドーム」もここ数年再び活況を呈するようになり、昨年(2013年)の大会はここ10年のドームでは最高の観客を動員、名実ともに復活を印象づけたのです。
そしてお待ちかね、今年の「1.4」、私も実に久々に行って来ました!
前述のように90年代までは皆勤賞でしたが、当社は毎年仕事初めが原則1月5日なので行けなくなっていたのです。
近年はスカパー!の完全生中継で楽しんでいたのですが今年は曜日周りの関係で5日が日曜日に当たり仕事初めを6日としましたので15年ぶりの「1.4」生観戦が実現したのです。
さらに今回は頼もしい助っ人?あり、そう、「魔法の鍼治療師」佐野先生と、昨年高知にご栄転となった四国銀行の有光支店長も上京し、ドームへ駆けつける事となりました。
有光支店長とは約一年ぶりの再会、それもこれも7年に一度、1月4日が土曜日になってくれたおかげです。
当日は後楽園ホールの前で待ち合わせ、既にドーム前は物凄い人集りでした。
我らドームトリオは定刻通り無事集合、いさんでドーム内に突入しました。
広い!約8年半ぶり(1.4は15年ぶりですがドームは前述の2005年のノア以来)に入ったドームの何とだだっ広く天井の高い事でしょう。
この日の観衆は発表で35,000人(満員)、90年代にあったぎっしり超満員には及ばないものの開放された席(照明設備や舞台装置の関係で最初から客を入れないゾーンもあり)は見事に埋まっていました。
2000年代前半の苦境を思うとよくここまで盛り返したものと感慨深かったです。
試合も熱戦が続き、演出もド派手、大変楽しめました。
5時から始まった興行が終了したのは実に10時過ぎ、ドーム大会はいつもそうですが、考えてみりゃこれほどの長時間興行を生観戦するのは久々なのでどっと疲れました。というか、パイプ椅子に5時間も座っているとケツが痛い(涙)。
昔は当日福岡ドームまで行って長時間観戦、終了後日帰りなんて芸当をやったものですが年には勝てませんわ。後日ある人にそんな話をしたら今でも十分元気に動きすぎですよ!と言われましたが(苦笑)。
他のプロスポーツやエンターテインメントでもドームが使えるのは数えられるほどしかないわけで、年に一度でもドーム大会が開催できる事は大変素晴らしい事なんだと改めて思いました。
世界で最大のプロレスイベントは毎年4月に米国のWWEが開催する「レッスルマニア」で毎回会場は変わりますが5〜8万人規模の観客を動員しています。
新日本プロレスの1.4ドームはそれに次ぐ世界で二番目のビッグイベント、その事を我ら日本のファンは誇りに思うべきです。
翌5日は家族サービス中の佐野先生を除き、私と有光支店長はお昼12時から後楽園ホールでのノアを観戦しました。
奇しくもこの日のメインは王者・KENTAと挑戦者・森島猛のGHCヘビー級選手権、ちょうど一年前に大阪府立体育館で有光支店長と一緒に観戦した試合のリターンマッチとなりました。
会場には昨年12月17日にもお会いしたハーリー・レイスがまたも来場、前日のドームにも立会人として参加しこの日を最後に日本を去るわけですが、年を越えての実に長い滞在でした。またの来日を楽しみにしています。
(プロレスリングノア後楽園大会はこちらをクリック)
試合後、有光支店長と別れた私は今度は池袋から東武東上線に乗って大山駅で下車、板橋区立グリーンホールでのJWP女子プロレスを観戦して帰りました。
お目当ては勿論、華名選手の試合です。
この日も華名選手はダブルヘッダーで我々が後楽園でノアを観ている時間に新宿FACEでプロレスリングWAVEの試合に出場していたそうです。
現在女子選手、それもフリーの選手で年間100試合以上もこなしているのはこの人ぐらいじゃないでしょうか…仕事の出来る人のところに仕事は集まるというのはどの業界でも共通なんだと実感します。
初めて訪れるグリーンホールは120人ほどの小さなハコ、ドーム → 後楽園 → 板橋と移動する度にどんどんキャパが小さくなっていきます(笑)。
この日の華名は昨年12月15日に激闘を展開(FILE No.356参照)した相手、中島安里紗と因縁のタッグを結成、タッグリーグの公式初戦に挑みましたが予想通り入場時から小競り合いが続き最後は仲間割れ、明らかに格下の相手にまさかの黒星発進となりました。 優勝候補の大本命が初戦を落とすのは古来よりよくあるパターンですが果たしてリーグ戦の行方は…?(JWP板橋大会はこちらをクリック)
8時台の新幹線に飛び乗り自宅への帰還はちょうど夜中の12時…流石に疲れた二日間でした。
カレンダーを見ると次に1月4日が土曜日に当たるのは6年後の2020年です。
その時は再度ドームトリオを結成し乗り込もうと佐野先生、有光支店長と約束しました。2020年は東京オリンピックではなく東京ドームへ行く年、それまで新日本プロレスは「1.4東京ドーム」を継続していてくれると信じています。
私にとって東京ドームは野球場ではなくあくまでプロレス会場、素晴らしいドーム・プロレスよ永遠に…。
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