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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.588 2018.8.25  

「 超獣メモリアル(5) 」

(前回からの続き)

7月16日は「海の日」、世間では三連休中の東京滞在最終日に私が長年待ちに待った超獣忌、ブルーザー・ブロディのメモリアルイベントが実現しました。

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 ブロディ没後30年にメモリアル・イベント開催

ブロディの秘蔵映像や音声を駆使し、それをプロレス評論家の流智美先生が解説するというディープなイベントですが、4月のボブ・バックランド来日時にアテンドをしていた流先生にお会いした時「ブロディの追悼イベントがやれたらいいですね。」と話した言葉が現実になりました。従って私が言い出しっぺと勝手に解釈しています(笑)。

1988年4月21日は社会人となった私の、リスパック東京支店への初出社日でした。

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 日本では神格的人気
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 このギロチンドロップの
迫力!

皆様も経験あるかと思いますが、入社初日なんて雑用ぐらいでまだ仕事らしい仕事無いんですよね〜、誰も指示してくれないのでやる事なくてぼ〜っと座ってたら、城戸課長からカタログ作り(ペラ物のチラシをファイルに閉じていく作業)をやらされましたよ(笑)。
暇でする事ないんだから初日ぐらい定時にさっさと帰らせてくれりゃいいのに(流石に初日に自分からお先!と言う度胸はない 笑)とことんほったらかし状態が夜まで続き、やむなく18時半〜19時頃まで残っていたら、ようやく誰か先輩から「帰っていい。」の許可が出ました。
実は私、早く終わったら後楽園ホールでやっている全日本プロレスの試合が観に行きたかったのです。入社初日からプロレスとは我ながら呆れますが(30年前も今も進歩なし! 笑)こちとら上京したてで右も左もわからぬ身、そこでグループ会社の同期で同じく東京支店勤務になった太田くんを無理やり付き合わせました。
後楽園ホールの当日券売り場は一階にあるのですが、それを知らずに直接5階のホールに上がってしまい再び1階に降りてチケットを買いました。

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 日米を股にかけ活躍

この時期は観客動員が芳しくない時代で、よほどの好カードでない限り当日でも余裕で入れたのです。ようやく場内に入るともう4〜5試合目ぐらいでしたが、セミファイナルにはブルーザー・ブロディが登場、ジミー・スヌーカとのコンビで谷津嘉章、ジョン・テンタ組に快勝しました。そして、出社初日に観たこの試合が私が生で観るブロディの最後になったのです!
このシリーズ(88チャンピオンカーニバル)の最終戦はその翌日の川崎市体育館で、ブロディ&スヌーカ組は天龍源一郎&阿修羅・原組の保持する世界タッグ選手権に挑戦が決まっていたもののスヌーカが負傷で帰国、当日になってブロディのパートナーはトミー・リッチに変更となりました。
上京したての私に川崎は遠くましてや平日、最初から会場に行くという発想すら無かったのですが、まさかこの日がブロディの日本ラストファイトとなるとは夢にも思いませんでした。無理してでも観に行くべきだったと後々後悔したものです…。
リッチとの急造コンビで敗退し「8月に日本に戻って来て復讐する」の捨て台詞を残して機上の人となったブロディが日本の土を践む事は二度とありませんでした…。

それから三ヶ月後の7月19日、これまでにも何度も書きましたが、あの日の事は今も忘れられません。
この日も後楽園に全日本を観戦に行くつもりだった私、何としてでも定時に事務所を脱出すべく(わずか三ヶ月ですっかりマイペース化 笑)目の前に山積みの仕事と格闘していました。その時、グループ会社のある先輩社員がすれ違いざま「ブロディが死んだ。」とぽろっと言ったのです!
ただ、こいつはいつも悪い冗談ばかり言っているような人でしたし、何よりも時間に追われていた為(またくだらねえ事言って人の仕事を邪魔しやがる、俺は今それどこじゃないんじゃ!)と本気にせずスルーしてしまいました。
17時30分を少し過ぎた頃にようやく仕事が終わり(と言うより無理矢理終わらせた)脱兎の如く事務所を脱出…さっきは相手にしなかったものの先輩社員の言葉はずっと心に引っかかっていました。まさか?いくら何でも?
一旦気になりだすとどんどん増していく不安感、しかしスマホで瞬時に検索出来る今とは違い情報が無い為、とにかく後楽園に行けば何かわかるだろうと、自然に早足になるのが自分でもわかりました。
息を切らして駅に到着した私の目に、ブロディが刺殺された事を報じる東京スポーツの1面が飛び込んで来た時は軽い目眩に襲われました。

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 急遽追悼セレモニーが
(88年7月19日後楽園)
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 ハンセンがブロディコール!

むさぼるように記事を読みながら、それでもまだ信じられない思いで後楽園に到着、既に事件は大半の観客に伝わっていた為、場内は心なしかウエットなムードで(何も知らず来場したファンはびっくりしたでしょう)試合途中でブロディの遺影を持った馬場さんがリングに上がり、追悼の10カウントが鳴らされた時、本当にブロディが亡くなった事を実感しました…。
シングルマッチで高木功を秒殺した盟友・スタン・ハンセンが試合後のリング上で何度も「ブロディ!」と連呼したシーンも忘れられません。

あれから30年…ブロディが刺された7月16日(亡くなったのは翌17日)に行われる事になったメモリアル・イベントでしたが、まいった事にこの日の東京は他にもイベントが盛り沢山でした。
新大久保の「居酒屋カンちゃん」では前田日明さんとキラー・カーンさんが、神田では大仁田厚さんがトーク・イベントを開催、おまけに埼玉県朝霞市では三人娘コンサートがあったのです。
当初の私はコンサートに行くつもりでファン仲間を通じてチケットを入手していましたが、ブロディ・メモリアル開催が発表されて思わず天を仰ぎました。
これがソロ・コンサートなら絶対行っていたでしょうが…7月は待望の裕美さんのソロが他の日に2回もあるし、涙を呑んで今回だけはブロディを優先、浮いたチケットは別のファン仲間に買って頂きました。
それにしても、裕美ちゃんの出るコンサートを蹴って、前田・カーン・大仁田も蹴って、よりによってわざわざレスラーの出ないイベントに行くのですから、私もかなりの物好きです(苦笑)。
前田&カーン・イベントも時間的にはしごは無理なので諦めていましたがここで天の助け、都内でのイベント過多に配慮した主催者の利根川さんが、急遽トークが始まる前にスリーショット撮影のみ対応の第0部を設けて下さったのです(感謝!)。
また、朝霞のコンサートは今月(8月26日)に「スカパー!」でオンエアされる事が決定、私はつくづく運が強いです。

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 久々の前田さん、カーン
さんと

7月16日当日、この日も異常な酷暑の中、先ず新大久保のカンちゃんのお店に到着、トーク開始直前の前田さん&カーンさんと記念撮影、相変わらず前田さんには皆の前で「ユーリ君、痩せてた時はもっと似てたよね。」とさんざん弄られました(笑)。
その後は巣鴨「闘道館」に移動、私はこの日に備えチェーン(と言っても新日本から発売されていた真壁刀義グッズのおもちゃ)を持参、さらにブロディ・メモリアルと言えば象徴はやはりこれ、黄色い薔薇の花束を当日着で手配していました。

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 私が届けた黄色の薔薇

届いたのがイベント開始の何と5分前で、忘れられてるのかと冷や冷やしましたが、配達に来た花屋の兄ちゃん、花を飾ったブロディの遺影をスマホで一生懸命撮影「私も(ブロディ)好きだったもので」だって(笑)。
遺影の前には主催者が用意したお供えとしてシーチキン(わかる人にはわかる!)と、赤い薔薇の花束がありましたが、これはブロディが猪木に宣戦布告したあの運命の日
(85年3月21日 後楽園)(FILE No.420,421「運命」 参照)
にブロディが持っていた花束のオマージュだそうです。
さて15時からイベント開始、何と言っても驚いたのがこの日集まったファンの数、実に約60人ですよ! コアな連中がせいぜい20人ぐらいだろうと思っていたのですが、何度も言うようにイベント過密状態の中、選手の出ないイベントに集まる物好きが私以外にこんなにいるとは(笑)…しかし30年経ってもブロディに思い入れを持つファンが多い事が嬉しかったです。
この日の主な内容は流朋美さんの解説で、現存するブロディ最古の試合映像(76年12月4日、ブルーノ・サンマルチノとのWWWF戦)、ハーリー・レイスとのNWA戦(79年10月5日 キール・オーデトリアム)など貴重な映像を観賞、このNWA戦は1本目をブロディがニードロップ、2本目をレイスがブレーンバスターで獲り、決勝の3本目はレイスが首固めで決めました。
また、80年1月6日(ブロディ二回目の来日)品川のホテルで収録したインタビューのテープによる肉声を聴きながら流氏が和訳して解説、ここでも色々と興味深い発言が聞かれました。
「自分で全てマネジメント出来るので私は他のレスラーのようにマネージャーを必要とはしていない。」(ブロディの性格そのものの言葉)
「アメリカでの成長株はポール・オーンドーフだ。5年後にはトップを取っているだろう。」
(日本で目立った活躍が無かったが米マットではヒールのトップに)

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 来日初期のブロディ

ブロディ自身は一目置いている存在としてハーリー・レイスの名を挙げ、史上最強のレスラーにはキラー・コワルスキーと答えていました。
流氏が「アンドレ・ザ・ジャイアントは?」と話を振ると、「録音テープを停めろ」と指示、オフレコの条件で(従って当時記事にはならず)
「過去何度も戦っていて見る人が見ればどちらが強いかは歴然。」
「リング上の試合結果はあまり関係ない。」
「その気になればいつでもピンフォール出来る。」
「オーストラリアで戦った時には控室で、勘弁してくれ、これからも何度も戦うのだからもう少しイージーにやってくれと泣きを入れて来た(?)」
と、言いたい放題だったそうです。
中盤にはテーマ曲マニアのコブラ氏(ザ・コブラにあらず!)のコーナーとなりブロディのテーマ曲「移民の歌」が徹底解説されました。

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 当時はアルゼンチンバックブリーカーを使用

この曲がブロディに与えられたのは4回目の来日となる81年の「チャンピオンカーニバル」からで、2週目のテレビマッチの水戸大会での使用が確認出来ます(ウエィン・フェリス→後のホンキー・トンク・マンを僅か16秒で秒殺した伝説の試合!)。
ただ、ファンならご存じの通り「移民の歌」はレッドツェッペリンの原曲では無く、石松元さんと言う日本のジャズドラマーがアレンジした歌なしのカバー・バージョンが使われており、私自身も昔ツェッペリンのアルバムをレンタルレコード屋で借りたら、いつも会場やテレビで聴いているのものと比べ随分スローテンポでびっくりしたものでした。
ツェッペリンのファン(ロックファン)に言わせれば邪道の極みと酷評のカバー・バージョン、しかしアップテンポにアレンジされたメロディはブロディの入場にどんぴしゃりで、敢えて原曲で無くこちらを選んだ当時の日本テレビスタッフのセンスに驚かされます。
その後ブロディは新日本に移籍、前述の初登場では猪木さんの発案によるベートーベンの「運命」でしたが、正式な試合初戦となる4.18両国では「移民の歌」が流れました。
新日本はカバーではなくツェッペリンの原曲を使用していましたが、コブラ氏の推理では「全日本との差別化を狙ったと言うより、テレビ朝日がただ単にカバー版のアルバムを入手出来なかった(つまりそれほどマイナー作品だった)のでは?」との事でした。

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 日本限定のチェーン

そして7.28大阪城ホール(猪木との再戦)からは冒頭に「運命」のイントロが加わった合体版・「移民の歌」(原曲)にリニューアル、こちらも私のお気に入りです。
ブロディの象徴と言えば自身が「守護神」とまで呼ぶチェーンですが、アメリカやプエルトリコでの試合映像を観ると、チェーンを使っていない事がずっと不思議でした(シンのサーベル、マスカラスのマスク投入と同じく日本限定のギミック)。
ゲストとして登壇したドクトル・ルチャこと清水氏曰く、「あれは竹内宏介さん(故人)のアイディアで、何処かのホームセンターに買いに行った」との秘話が飛び出しましたが、ブロディがいかに日本を特別なマーケットとして重視していたかがわかるというものです。
15時に始まったイベントのラストは、スタン・ハンセンとの超獣コンビ入場時の合体テーマのフル・バージョンを聴いて18時50分に終了、何と3時間50分の長丁場!
ブロディを偲んであっという間の時間でしたが、やはりケツが痛かったです(苦笑)。

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 ブロディよ永遠になれ!

没後30年のイベントが終わり、何か心の中で一区切りついたような気持ちですが、いよいよ最後に残された私のミッション、それはいつの日かプエルトリコのサンファンに行く事です。30年間思い続けた私のライフワーク、願いはいつか叶うと信じています。
天のブロディよ、どうか待っていてくれ!

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