昨年来約1年かけて引退ツアーを行なって来た「邪道」大仁田厚が「還暦になったら引退する」(*誕生日は10月25日)の公約通り、10月31日に最後の試合を終えました。
今回は7年ぶり通算7回目の引退、ここまでやりゃもう立派なもの!?(笑)、ここで大仁田の引退と復帰の歴史を振り返ってみましょう。
1973年、15歳の時に前年旗揚げしたばかりの全日本プロレスに新弟子第1号として入門した大仁田厚は74年4月14日に後楽園ホールでデビュー、81年に海外武者修行に出発し、82年3月7日には米ノースカロライナにてチャボ・ゲレロを破りNWA認定インターナショナル・ジュニアヘビー級王者となって凱旋しました。
この頃は新日本プロレスと全日本プロレスの企業戦争が大激化していましたが、ジュニア2冠王者として空前の人気のタイガーマスク(佐山サトル)を擁する新日本が観客動員・テレビ視聴率とも全日本を圧倒していました。大きく水を開けられた全日本はタイガーへの対抗馬として24歳の若きジュニア王者・大仁田を華々しく売り出しましたが、不世出の天才である佐山と比較するのはいささか酷というもの、まだまだ人気先行の感は否めませんでした。
そして大仁田は翌83年4月20日、ヘクター・ゲレロ戦にて左膝蓋骨粉砕骨折の大アクシデントに見舞われ、天国から一転、地獄に突き落とされます。
医師から再起不能を宣告された程の重症でしたが大仁田は翌年執念のカムバックを果たし、自分が返上したベルトを取り戻すべく当時王者のマイティ井上に挑戦しました(8月26日・田園コロシアム)。試合は善戦したものの古傷の膝を攻められ両者リングアウトで王座奪取ならず、諦めきれない大仁田は試合後涙を流しマイクで「引退を賭けてもう一回挑戦」をアピールしました。
思えば後に7度も引退する大仁田が公の場で最初に「引退」を口にした歴史的瞬間?でしたが、この時代から既に後の泣き虫キャラの原型が出来上がっていたのが非常に興味深いです。
引退を賭けた再挑戦は12月2日・後楽園ホールで実現しましたが大仁田は敗退、引導を渡され、85年1月3日、同じ後楽園にて引退式が行われました。(1度目の引退)
スーツ姿で挨拶し退場する大仁田に客席から大仁田コールが送られましたが、皮肉にもこのシリーズは15年後に戦う事になる長州力が初めて全日本に本格参戦したシリーズで、大仁田コールはすぐに次に出番を待つ長州への嵐のようなコールでかき消され、大仁田は寂しくプロレス界から去って行ったのです…。
それから3年半、すっかり忘れられていた大仁田がプロレスファンの前に再び姿を現したのは、意外にもジャパン女子プロレスのリングでした。
引退後、水商売から土木作業員・配達業など様々な職を転々とした挙句かつての経験を活かし同団体のコーチに就任しましたが、やはり大仁田は裏方に甘んじるようなタマではありませんでした。同じく同団体でレフェリーを務めていたグラン浜田と試合の裁定を巡って因縁が勃発、流血の乱闘となり、急遽シングルマッチで決着をつける事になったのです(88年12月3日 後楽園)(1度目の復帰)。
女子プロに興味が薄かった私もこの一戦観たさに会場に足を運びました。
女子のリングで男子が試合、今では別段珍しくもない光景ですが、当時は所属女子選手たちが涙ながらに反発、ファンも判官贔屓でこれに同調し、問題の一戦は女子の試合が全て終わった後に、罵声とブーイングが飛び交う中で強行されました(浜田がフォール勝ち)。
翌89年、ジャパン女子を離れた大仁田はフリーの立場で二試合を消化(4月・剛竜馬戦、7月・青柳政司戦)した後、遂にわずか5万円の軍資金で新団体FMWを旗揚げしました。
テレビも無ければスター選手もいなく、数ヶ月も持たないだろうと誰もが冷ややかな目で見ていましたが、ここで大仁田はレスラーとしてだけでなくプロモーター、マッチメイカーとしても非凡な才能を開花、誰も予想し得なかったミラクルを起こします。
正統なプロレスではメジャー団体の新日本や全日本に勝てるわけがないと、大仁田が差別化の為に思いついたのが、奇抜なデスマッチの導入でした。
かつて金網デスマッチやストラップ(革紐)、チェーン・デスマッチを導入した国際プロレスが81年に力尽き解散した事から「デスマッチに手を染めてはならない。」と日本ではタブー視されていた禁断の路線でしたが、大仁田は前代未聞の「ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ」(FILE No.313参照)を考案、これによって大仁田とFMWの名前は一気に世間に轟きました。
この頃から大仁田の元にはテレビや雑誌などメディアから取材が殺到、いつしか大仁田は馬場・猪木にも負けないだけの知名度を持つ大きな存在になっていったのです。
奇跡の大成功を遂げた大仁田でしたが、過酷なデスマッチと殺人スケジュールの代償で肉体はぼろぼろ、体力の限界から人気絶頂時の94年5月6日、前日の川崎球場の天龍戦に敗れたのを機に一年後の引退を表明し、それから一年かけて全国で大々的な引退ツアーを行い、95年5月5日、川崎球場のハヤブサ戦でリングを下りました。
(2度目の引退)
身体の問題とは言え、人気・知名度はピークのうえ37歳の若さでの引退ゆえ、直後から復帰疑惑が何度も囁かれましたが本人は頑なに否定、しかし96年末にまさか!が起こりました。
現役時代に抗争を繰り広げた宿敵・ミスター・ポーゴが引退を表明し「引退試合で大仁田と組みたい。」とぶち上げたのです。
大仁田は「自分はリングに上がるわけにはいかん!」と拒否しましたが、ポーゴは連日涙ながらにリングで土下座を繰り返し、情にほだされた大仁田は遂に「全ての批判を覚悟して」電撃復帰を決めました。
(96年12月11日 東京・駒沢)(2度目の復帰)。
世論は当然賛否両論、激しい罵声やブーイングもありましたが、大仁田はマイクで「確かに俺は嘘をついた!だが生まれてこのかた一度も嘘をついたことのない人間なんているのか!」と半分やけっぱちで開き直り、暫くの間「ミスター・ライアー」(嘘つき野郎)のニックネームを冠せられました(笑)。
なし崩し的に復帰を果たした大仁田はその後FMWを離れメジャーへの殴り込みを宣言、新日本プロレスに参戦し目標であった長州力との電流爆破(2000年7月30日 横浜)を実現させ翌2001年には参院選に出馬し当選、さらには明治大学に入学など様々な話題を呼び、この後も引退と復帰を繰り返す事になります。
05年3月26日には明大卒業式の後、後楽園ホールでプロレス卒業試合を開催、(3度目の引退)余談ですが、我が社が加盟している共同組合ジェプラの顧問の百瀬先生は明治大学の名誉顧問であり、私に「あの馬鹿(大仁田の事)は俺のおかげで何とか卒業できたのに挨拶がない!あいつに会ったらよく言っておいてくれ!」と伝言を頼まれましたが、そんな事とても言えません(苦笑)。
しかし一年後には靖国神社で行われた奉納試合(06年4月1日)で「お国の為命を落としていった方々の為にリングに上がりたい。」と試合に出場(3度目の復帰)、復帰はあくまでこの日一日限りとしてまたも引退(4度目の引退)、しかし07年になると2月11日二瓶組のリングで復活興行(4度目の復帰)を行い、以後も単発的に試合を続けます。
09年12月28日の自主興行で「5度目の引退」、故郷・長崎県の知事選出馬を表明(落選)、10年2月21日に「5度目の復帰」をしたと思ったら5月5日新木場のリングではFMW時代の盟友、ターザン後藤とのコンビで引退試合を行い「6度目の引退」、しかし半年後の11月22日には「6度目の復帰」戦、そしていよいよ今回が「7年ぶり7回目の引退」となった次第です。
こうやって振り返ってみると、一度寂しく業界から消えていったあの後ろ姿をリアルタイムで見た私からすればその後復活して一世を風靡し、遂には国会議員にまで上り詰めたその生き様は本当に感慨深いです。引退と復帰の是非はともかくとして本当にこれほど強運の持ち主はなかなかいません。
余談ですが大仁田が当選した2001年夏の参院選にはかつて散々比較され、酷評された因縁のライバル、初代タイガーマスクこと佐山サトルも出馬していました。
舞台を変えて思わぬ形で実現した因縁の対決は大仁田の当選に対し佐山は落選とくっきり明暗を分け、大仁田としてはようやく一矢報いたわけです。
さらに時は流れ2012年には30年越しで遂にリング上の対戦が実現
(FILE No.280参照)したのですから、ホント、いつも同じ事を言いますがプロレスは壮大な大河ドラマです。
例年でしたら今週が年内最後の更新、ラストを邪道・引退試合で飾るつもりでしたが、あらら、前フリの駄文で紙面が尽きてしまいましたので、当ブログのファンの皆様にクリスマス・プレゼント&一足早いお年玉? 来週29日(金)の更新が電撃決定!
この日が仕事終わりの会社も多いでしょうに(当社もそうです)、こんな年の瀬に一体誰がアクセスするんだよ!?(苦笑)、とりあえず来週お会いしましょう! ファイヤー!!
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(12月29日(金)更新分に続く) |
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