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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
 FILE No.481 2016.7.16

「 超獣メモリアル(2) 」

本ブログの更新日である7月16日は今から28年前、忘れようにも忘れられないあの忌まわしい事件が起こった日です。

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 7月16日はブロディが
刺された悪夢の日…

1988年7月16日(現地時間)、我が敬愛する「超獣」ことブル−ザ−・ブロディは遠征先のプエルトリコで、会場のシャワールームでレスラー仲間にナイフで刺されると言う前代未聞の事件に巻き込まれました。

惨劇の現場となったのはプエルトリコのバイヤモン市にあるホワン・ラモン・ロブリエル・スタジアム(別名バイヤモン球場)でした。地元のプロレス団体WWCの試合に出場する為にその日アメリカからやって来たブロディは、他の選手と一緒に一塁側ダッグアウト裏の控え室で待機していました。

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 ブロディ最大の必殺技、キングコングニードロップが馬場に炸裂!

そこへ事件の犯人、ホセ・ゴンザレスがやって来て「話がある」とブロディを控室の隅のシャワールームに誘い、二人は激しい口論になりました。
ホセ・ゴンザレスはプエルトリコ出身のレスラーで、マスクマンのジ・インベーダー1号として地元の英雄として活躍しており、プロモーターでWWCの代表であるカルロス・コロン(レスラー兼任)の下でブッカー&マッチメイカーを務める重役でもあったので、話の内容は当然ビジネスに関する事でしたが、ブロディが「それなら試合はキャンセルだ。」と帰ろうとしたところをゴンザレスが所持していたスイッチブレイド状のナイフで胸部を一度、腹部を二度、計三度にわたり刺したのです!
ブロディは病院に運び込まれ二度に渡って手術を受けたものの、出血多量により翌17日、還らぬ人となりました…。

プロレス界の汚点となるこの事件、6年前のブロディの命日である7月17日には「超獣メモリアル(1)」(FILE No.180 参照)をお届けしましたが、今回は事件が起こった日に何故このような悲劇が起こったのかを改めて考えてみたいと思います。

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 全日本時代、最大の
ライバルはジャンボ鶴田

ブロディは初来日(79年1月、全日本プロレス)の時「自分は世界マットにブロディ革命を起こす!」と宣言しました。
まだ長州力の維新革命、天竜源一郎の天龍革命が一大ムーブメントとなるよりはるかに前、最初に「革命」という言葉を口にしたのはブロディだったのです。
ブロディ革命の本質とは何だったのか? それはプロモーターを敵とみなし、あくまで自分の価値観に基づいて行動をする事でした。自分の試合をコントロールするのはあくまで自分自身の意思であると言う揺るぎない信念と哲学、これこそがブロディにとって絶対に譲れない一線だったのです。
本来ならプロモーターへの反逆はレスラーにとって仕事場を失ってしまう自殺行為ですが、それでもオファーが絶えなかったのはそれぐらいブロディに商品価値があったからです。
ブロディがアメリカでは大手団体ではなくもっぱらインディペンデントを主戦場にしていたのも、インディでは「お山の大将」として主役を張る事が出来、自分の力で観客を呼び込む事で低迷していたテリトリーを活性化させる事に無上の喜びを感じていたからでした。

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 天龍との革命児対決
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 最後の来日でインター
ヘビー級王座を奪取、
歓喜に咽ぶ

亡くなるわずか3ヶ月前、結果として最後の来日となった88年4月(全日本プロレス、チャンピオンカーニバル)、天龍源一郎との三冠統一戦(4月15日 大阪)を目前に控えたブロディはインタビューでこんなコメントを残しています。
(この試合は天龍革命VSブロディ革命とも言われていますが…)
「革命とは天龍の言葉ではない。私が考え実践して来た事を彼が盗んだのだ。革命とはビッグ・チェンジ…小さい事じゃなくてデカい事を指す。天龍の革命は小さい。
トップの外人で彼が倒したのはスタン(ハンセン)だけだ。それにマット活性化と言っても東京、大阪…実にスモールだ。
俺の革命はオールオーバー…アメリカ各地の独立プロモーションを活性化させクウエ―ト、イスラエル、イタリアにまでブルーザー・ブロディの名前は鳴り響いている。
7月にはヨーロッパ…オットー・ワンツ(ドイツのレスラー兼プロモーター)の招きでオーストリアに行く事も決定している。

そう、当初の予定ではブロディは事件のあった7月16日、プエルトリコではなくオーストリアで試合をしているはずだったのです! しかし何故かブロディはこの遠征を直前にキャンセルしました。
当時私はその記事を週刊ゴングで読んで(ああ、またブロディのドタキャン癖が出たのかな?)と思っていましたが、予定通りオーストリアに行っていれば死なずに済んだかと思うと運命の皮肉さを感じずにはいられません…。

ブロディを刺殺したホセ・ゴンザレスはプエルトリコ出身でかつて新日本プロレス、全日本プロレスにも来日した事がある小兵(公称で身長178cm、実際は170cm程度か?)の選手でした。このサイズでは当然来日時も目立った活躍はなく、前座試合への出場が大半で私自身も殆んど印象に残っていません。
198cnの大型ファイターであるブロディは昔から身体の小さいレスラーを認めず、小馬鹿にする傾向がありました。
初来日以来長く蜜月関係が続いていた全日本プロレスと亀裂が生じたのは、85年になって長州力が軍団を率いて全日本マットに参戦、日本人対決がメインを占めるようになった事が大きな原因でした。
「俺やジャンボ鶴田のようにサイズが大きい事が一流レスラーの条件だ。長州のようなチビがトップになれるなんて日本のファンはおかしいんじゃないか。」

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 85年、新日本に移籍し猪木と運命の対決

ブロディは長州との直接対決では一切相手の技を受けず一方的に叩き潰すファイトに終始、そしてシリーズ最終戦では最後っ屁を放つかのように試合途中で控室に引き上げる暴挙まで起こして全日本と決別、新日本プロレスへの電撃移籍をやってのけたのは以前に書いた通りです(FILE NO.420,421「運命」参照)。
ブロディに逃げられたジャイアント馬場はアメリカのある関係者から「あのトラブルメーカーをよく6年間も使えたものだな。」と言われたそうですが、結局ブロディは新たに戦場とした新日本でも長続きしませんでした。

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 巨体が宙を舞う、藤波に
ドロップキック

当時の新日本は長州軍団の大量離脱で戦力が大幅に低下、人気低迷にあえぐプロモーションの救世主の役割こそが自分の使命と考えるブロディが移籍を決意したのはある意味当然と言えましたが、お互いの利害が一致していたのは最初のうちだけでマッチメイクや扱いを巡って水面下で何度も衝突を繰り返し遂に暴発、同年暮れには大事な試合でボイコット事件(12月12日仙台)を起こし遂に完全決別となったのです。
新日本への不満をぶちまけたブロディはこの時も「星野勘太郎のような小さな選手と自分の試合を組んだ」事を理由の一つに挙げていました。
当時は新日本と全日本の事実上二団体時代だったのでブロディは日本で上がるリングを無くしてしまいましたが、仲介者の手により馬場と和解する事に成功、87年10月から全日本への復帰が許されました。
プロモーターとしての馬場は他の選手への示しとして、一度裏切った選手を絶対に使わない方針を貫いていましたが、その馬場が禁を破って復帰を認めたのはやはりそれだけブロディを高く評価していたからです。
あの事件さえなければ平成マットでもまだまだブロディの勇姿が見られたはずだっただけに無念の思いが残ります。

話が逸れましたが、小柄のホセ・ゴンザレスはブロディが「認めない」典型的な選手でした。二人は76年、ニューヨーク・マットで何度か対戦しており、常に容赦なくブロディが叩きのめしていたそうです。
時が流れプエルトリコで再会した二人、忌まわしい事件が起こる前年(87年)、当地でも両者の試合は実現していました。
約一年後に殺人の被害者と加害者となる二人の試合は今でもインターネットやDVDで視聴可能ですが、試合を目撃したある日本人レスラーはこの時のブロディも一切容赦なしの試合ぶりだったと証言しています。

しかしここでのゴンザレスは、リングを降りるとブッカー&マッチメイカーの要職に就いていた事が問題でした。
業界用語で言うブッカー、マッチメイカーとはタレントである選手を集め、対戦カードを組み現場を仕切るプロデューサーのような役割を指し、絶対的な権力を持っています。
つまりリング外でのブロディとゴンザレスはあくまで「使われる側」と「使う(雇用する)側」、しかし自分を軽蔑し言う事を聞かないブロディにゴンザレスが日頃から手を焼いていた事は想像に難くありません。
ある選手はブロディがゴンザレスに全く敬意を払わなかった事が他の選手にまで影響を及ぼしていた事をはっきりと認め、またある選手は「ある一線を超えてしまったのだろう。ゴンザレスの事を他の選手の前で貶めてしまった。」と語っています。

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 若き日の新聞記者時代
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 素顔のブロディは風貌とは真逆の知的な人

ドタキャン、ボイコット、挙句には差別(?)と書いていてまるでブロディが社会生活不適格者のような印象を与えてしまうのが不本意ですが、リングを離れたブロディは古館伊知郎アナが「インテリジェンス・モンスター」と命名した通り、元新聞記者だけあって知的で紳士的な人でした。
ただ、自分の仕事に人一倍プライドを持ち、自分にも他人にも決して妥協しない姿勢を貫いた事が結果としてあのような悲劇を生んだのだと思います。実際ブロディが亡くなった時「彼ならいつかはこんな事件に巻き込まれるような気がしていた。」と言う関係者が何人もいたのも事実でした。

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 ブロディ革命は未完で
終わった…

それにしても凶行を未然に防ぐ事は出来なかったのか?…何とか人間関係を修復しようとゴンザレスはブロディをホームパーティに招いたがブロディから「ビジネスは別だ。」とぴしゃりと釘を刺された、ブロディとWWCのオフィスの間には金銭トラブルがあった、ゴンザレスは娘がプールで水死する悲しい事故があって情緒不安定気味だったetc…様々な報道を目にしましたが、本当に二人の間に何があったのかは当事者にしかわかりません。

28年前の悪夢の日、現場を見ていた生き証人が長い歳月を経て、重い口を開きました…。

(次回へつづく)
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