包装資材の専門商社 タミヤ

ホーム タミヤのチカラ 商品ラインナップ 環境保全活動 会社情報 お問い合わせ

会社情報

Home > 会社情報 > 社長の経営日誌
会社概要
主要販売・仕入先
社長の日誌

社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です

FILE No.348

2013.11.2
「 結婚記念日(1) 」

♪パパパパ〜ン パパパ〜ン パパパパパパパパパン(←ウエディングマーチを口ずさんで下さい。)

この秋、当社の現社員、寿退社した元社員と結婚ラッシュが続きましたがこのブログの更新日は何を隠そう、アントニオ猪木さんと倍賞美津子さんの結婚記念日なのです!
先週、今回のテーマは「結婚記念日」と予告したらすぐに何人かの読者から「どうせ猪木でしょ?」と指摘されました。やはりネタバレしましたか(笑)。

 クリックで拡大
 世間が注目した一
億円結婚式

1971年(昭和46年)11月2日、東京・新宿京王プラザホテルにて行われた二人の挙式は「一億円結婚式」と呼ばれるほど盛大で大変な話題となりました。

猪木さんの自伝によれば先輩レスラーの豊登(故人)が二人の愛のキューピット(似合わない!)でした。
ある日、豊登が銀座で食事をして自分の車(当時国産で最高級と言われたセンチュリー)に戻ってくると「こんな車に乗りやがって。」と車を蹴っ飛ばしている3人組の女の子がいて、そのうちの一人が若き日の倍賞美津子さんだったのです。
後につきあうようになった猪木さんが「何で豊さんの車を蹴っ飛ばしたの。」と尋ねると「こっちはお腹ぺこぺこで歩いているのに銀座の真ん中にでーんと凄い車を停めていたんで頭に来た。」のだとか(笑)。
車を蹴飛ばしたおかげで豊登に食事をご馳走になり送ってもらって親しい関係となった美津子さんは、その後豊登がハワイに行った時のお土産を渡す時に一緒にやって来た猪木さんと運命的に出会います。
猪木さんもそれからよく豊登に「寛ちゃん(猪木の愛称)、食事に連れて行ってやってくれよ。」と頼まれるようになって、友達を交えての賑やかなグループ交際が始まり5年近い月日をかけて、距離を近づけていったのです。

 クリックで拡大
 クリックで拡大
 まさしく人生最良の日…

プロポーズは「どうだい、一緒になるか。」「いいわよ。」とあっさりしたもの、かくしてめでたく結婚の運びとなるわけですが、最初は二人だけでハワイあたりでごく親しい人だけを招待して地味にやるつもりだった挙式が何で「一億円結婚式」というド派手なものになってしまったのでしょう?

二人の婚約が発表された時、一部のマスコミは「倍賞美津子とアントニオ猪木が婚約」と報道しました。
美津子さんの名前が先に来て「やはりプロレスはマイナーなんだな。」とカチンと来た猪木さんの闘魂に火がつき、世間がプロレスをそう見ているのならあっと言わせてやろうと思った事が発端となりました。
この頃のプロレス人気は少し低迷気味で(と言っても日本プロレス一団体を日本テレビとテレビ朝日がそれぞれ週1回ずつゴールデンタイムでオンエアしていたのですから今とは隔世の感あり)そんなところにジャイアント馬場と並ぶ日本プロレスの大看板アントニオ猪木が人気女優と結婚するというニュースが飛び込んだのですから、会社としても格好の話題作りになると思ったのでしょう。
「よし、できるだけ派手にやれ! 式の費用は全部会社が負担する。これでプロレスのムードを盛り上げよう」と言う事になり、ホテル側も乗り気で「これはホテルとしても宣伝になるので思いっきり派手にやりましょう。」と協力を申し出て猪木さんもつい乗ってしまいました。
それまでの最高が横井邦彦と星由里子の五千万円結婚式だったので、それならこちらは一億円、と言うわけです。

 クリックで拡大
 姉・倍賞千恵子の歌に
新婦は感涙

仲人は三菱電機の大久保謙会長夫妻が務め、招待客は約1300人、衣装も料理も超豪華、高さ4m50cmの超特大ウエディングケーキは300万円、引き出物の柿右衛門の皿とブラジルの蝶の見本の額は一組10万円、本当に一億近いお金がかかったというから驚きですが、実はこの時の貴重な柿右衛門の皿を持っている人がいるのですよ!
そう、9月に訪れた京都のプロレス美術館(FILE No.343参照)の湯沢館長です。ただ、残念ながら私が訪問した時には東京のマニアの方に貸し出し中という事で拝む事ができませんでした。う〜ん、残念…。

人生で一番幸せな日を迎えた二人、しかし、好事魔多しとはよく言ったものです。
実はこの時期の猪木さんは放漫経営の続いていた会社を内部改革しようと動いていました。
しかし事は事前に発覚、猪木さんは会社乗っ取りを企んだという汚名を着せられ日本プロレスを追放処分にされてしまったのです。
これが有名な「日本プロレスクーデター未遂事件」ですが、それは一億円結婚式からまだ1ヶ月半しか過ぎていない時でした。
当然、会社が負担してくれるはずだった式の費用は払ってもらえるわけもなくいきなり猪木夫妻の借金となりました。
上がるリングを失った上に莫大な借金、これだけの逆境に見舞われながらも猪木さんは夢を諦めませんでした。理想のプロレスの追求を求めて新日本プロレスを旗揚げしたのです。
プロレスラーは何をおいても練習しなければならないという信念のもと、新婚夫婦のスイートホームとなるはずだった一戸建ての自宅を改造して道場にしてしまったのですから、その本気度がわかりますがやがてこの道場から多くのスター選手が排出される事になります。
因みに元猪木家だったこの道場は41年が過ぎた今も健在で、老朽化が激しくなった為に今年、テレビ「ビフォー・アフター」の企画で全面リフォームされ見違えるように生まれ変わりました。

「あんたはおっちょこちょいね。式の費用を払ってもらってから会社と喧嘩すれば良かったのに。」と笑い飛ばし「よ〜し、いいじゃない。あんた一人ぐらい私が食べさせてあげる。男は思い切りが肝心よ、私たちの力でやりましょう。」とハッパをかけ猪木さんを励まし続けた美津子さん、その明るさと気丈さに猪木さんはどれほど救われた事でしょう…猪木さんは今でも「新日本プロレス最大の功労者は倍賞美津子」と言いきります。

この頃猪木さんと美津子さん、美津子さんの付き人が金策に歩いた帰り、「腹が減ったのでラーメンでも食べて帰ろう」と言う事になりました。
お店に入ってラーメンを3人分注文して美津子さんが財布の中を検めると二人分のお金しかありません。猪木さんは美津子さんに頼りっきりで一銭もなく、美津子さんは慌て「自分はお腹が痛いから。」と一人分をキャンセル、猪木さんと付き人が食べるのを黙って見ていたそうです。

「一杯のかけそば」を思わせる泣けるエピソードですが、こんなにも固い絆で結ばれていた二人が後年破局を迎えると誰が想像したでしょう。

原因は猪木さんが副業としてブラジルで始めたサトウキビの搾りかすを使ったリサイクル事業でした。
世界の食料危機を解決する可能性を秘めた夢とロマン溢れるプロジェクトはブラジルの狂乱インフレにより大失敗、負債はあっという間に数十億円にまで膨れ上がりました。
世間にはよくある話かもしれませんが、文字通りお金が人生を狂わせたのです。

「借金に苦しむ私にはかつての勢いも魅力もなくなっていたのだろう。美津子は女優だし、その事を敏感に感じ取って心が揺れ始めたのだと思う…。」
気持ちはすれ違い、夫婦喧嘩が多くなるまさに負のスパイラル、もはや借金はとても一介のプロレスラーが手に負えるレベルではなくなり猪木さんは本気で自殺を考えるようになりました。

かつて猪木さんの側近を務めていた永島勝司氏は著書でこんな秘話を明かしています。
「どこのプロレス会場だったか忘れたが、ミっちゃんが控え室にまで「冗談じゃないわよ!」と怒鳴り込んできた事があった。彼女が個人的に貯めていた預金に猪木の親族が勝手に手をつけたことにより堪忍袋の緒が切れたのだ。
「死んでやる!」と会場を飛び出した時は最悪の事態も有り得るかと思った…。」

1987年(昭和62年)、一緒にいることはもうお互いの為にならないと離婚は美津子さんの方から言い出しました。
話し合いの末別れる事が決まり、正式に離婚届を提出したわずか二日後、猪木さんはぼろぼろの極限の精神状態で巌流島(FILE No.274参照)の戦いに赴きました。レスラーは戦って死ねれば本望…あの時の猪木さんは本気で死ににいく覚悟だったのです…。

それから長い月日が流れた2002年、猪木さんと美津子さんが二人三脚で立ち上げた新日本プロレスは創立30周年を迎えました。

 クリックで拡大
 二人の再会が実現!(写真はいずれも、ゴング&プロレス誌より)

東京ドームで行われた記念興行、リング上でセレモニー中の猪木さんの前にサプライズ・ゲストが!

何と美津子さんが花束を持って駆けつけたのです!
「一寸先はハプニング」が口癖の猪木さんもこれには唖然、そして二人は笑顔で固い握手を交わしました。
客席で見ていても本当に胸が熱くなる感動的な再会でした。

猪木さんが美津子さんを「魂の友人」と呼べば、美津子さんは猪木さんの事を「アントンは戦友」と言います。
お互いに道は分かれてしまったものの二人で一緒に過ごした時間はかけがえのないセピア色の思い出として心の中に永遠に残るはず、記念すべき11月2日、二人のこれからの人生に幸多かれと願って乾杯したいと思います。

<過去の日記>
サイトマップご利用にあたってプライバシーポリシー

(c) 2007 TAMIYA.Ltd