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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.529 2017.7.8  

「 超飛龍45周年(1) 」

今回も4月のネタで恐縮です、“炎の飛龍”藤波辰爾選手のデビュー45周年記念興行に行って来ました!

1971年(昭和46年)5月9日、わずか17歳でプロレス・デビューした藤波選手、 プロレスラーと言えば身体の大きさが絶対条件だった時代、特に大きいわけでも格闘技での実績があるわけでもないヒョロヒョロ(失礼!)の少年が今日の地位を築くとは誰も想像出来なかった事でしょう。
過去から現在までこの地球上にプロレスラーと言う職業人が何人いたのかは定かではありませんが(一度も引退せず)第一線で現役を45年続けたプロレスラーは20人もいないのではないでしょうか?
一昨年WWEの殿堂入りした藤波選手ですが、大袈裟ではなくこの偉業は国民栄誉賞に匹敵すると言っても過言ではありません。
偉大なドラゴンの45周年を記念して東京・大阪・博多の三ヶ所で記念試合が行われる事になりましたがこの大会に花を添える為、ある時はIWGPベルトを巡って戦い、またある時はタッグパートナーを務めた“皇帝戦士”ベイダーの来日が決まりました。
試合だけでなく藤波&ベイダーのレジェンド・コンビによるトーク・イベントも三ヶ所で決定し私としてはドラゴン45周年&ベイダー来日を祝って東京・大阪・博多と、計6つの試合&イベント参加のグランドスラムを達成したかったのですが、予算&スケジュールの兼ね合いで早々と断念しました。
ご存知のようにただでさえ4月は前半にアメリカで散財してしまったのでいささか自粛せざるを得ない状況(周りからは自粛がいつまで続くかと言われましたが 笑)、第一グランドスラムの為にはわずか5日の間で東京二泊、博多一泊しなきゃならない、いくら私がヒマ人でも(笑)物理的にとても不可能です。
結局地元・大阪を最優先し、東京は泣く泣くイベントのみ、博多は見送る事にしました。

多くのファンが私と同じ心境だったと思いますが、ベイダー来日のニュースを耳にした時、驚くと同時に不安を感じました。
昨年末、うっ血性心不全で医師から余命2年を宣告されたと言う、ショッキングなニュースが流れたからです!
もしそれが事実なら、そんな体調で本当に日本に来られるのか?仮に来日出来ても試合をして大丈夫なのか?ましてや今回は三試合の契約、招聘に踏み切った藤波選手も気が気ではなかった事でしょう。

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 アメリカでお会いした時のベイダー

私はひと足お先にアメリカで来日直前のベイダーにお会いする事が出来ましたが、(FILE No.526 参照)近くで見ると失礼ながらやはりお年を召されたな〜という印象は否めなかったものの思いの外元気そうでひとまず安心、下手な英語で「日本でお待ちしています。」と伝えました。

渦中のベイダーは4月18日成田空港に無事来日、都内で会見を開きました。
「色々な噂があるのは知っています。昨年11月に交通事故に遭って、2〜3日入院した時に病院の院長から余命2年と言われたのは事実だが、私はそれは違うと言った。(中略)
色々な病院に行って最初の院長含め計6人の医師のうち、同じ意見(余命2年)が4人、違う意見が2人だった。この4人は同じ病院の医師なので同意見なのは当然で私は信じていない。自分自身は問題ない。レスラーとして生活して最後まで戦う。例え4人の医師が正しくても私はこの生活を続けたい。ベイダーは死なない。私は死にたい時に死ぬ。」 アメリカでは一ヶ月に8試合はこなしていると言うベイダー、とりあえず無事来日してくれた事にほっとしましたが、無理はして欲しくないと言うのが本音でした。

東京でのイベント当日、お昼はfacebook友達である永藤さんと待ち合わせして、飯田橋にある元女子プロレスラー元気美佐恵さんがやっている居酒屋「ねばーぎぶあっぷ」
(奇しくも藤波選手の名言!)にて昼食、その後は銀座にあるコーヒーショップ「蕃」に連れて行って頂きました。

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 美川のり子隊員こと西恵子さんのお店で
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 「ウルトラマンA」
祝・45周年!

このお店は「ウルトラマンA」でTAC隊員、美川のり子を演じていた元女優の西恵子さんのお店です。
現在は銀座のみですが昔は神田と2店舗あり、実は10年ほど前に神田のお店に行った事があり、西さんにコーヒーを運んで頂いたのですが、その時はお店が忙しそうでお話する事が出来ませんでした。その後3年前にはアンヌ隊員のお店でのイベントでもお会いしましたが(FILE No.365 参照)、この日はお店の常連である永藤さんのおかげでご挨拶出来、一緒に写真を撮って頂けました。
それにしても美川のり子隊員が主役の「A」第4話「3億年超獣出現!」、子供心にもエロくて興奮したよなあ(笑)…その回が収録されたDVDジャケットにサインを入れて頂きました。当時と変わらずお綺麗な西さん、これまた奇しくも藤波選手同様「ウルトラマンA」も生誕45周年ですから是非記念イベントでもやって欲しいものです。

夜に再度落ち合う永藤さんと別れ一旦ホテルに帰って小休止の後は19時から開始の藤波選手とベイダーのトークイベント参加の為、六本木までやって来ました。

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 トークイベントに藤波と
ベイダー登場

今宵の会場である住友不動産六本木グランドタワーは様々なオフィスや商業・住宅・駐車場が入った複合施設で、セキュリティが厳しくIDカードが無いと中に入れないので、開場時間まで外のハンバーガーショップの前で待たされ、時間になると係員が来て先導してくれました。
開始時間となりベイダーと藤波選手がそれぞれのテーマ曲に乗って入場、貴重なお話が色々と聞けましたのでダイジェストで再現しましょう。

(ベイダーの日本デビュー戦)
「あの日は歴史的な一日だった。87年当時の新日本プロレスは決して良い状況ではなかったと思う。それまで10年間誰にも負けなかった猪木が初来日でまだ無名の自分を対戦相手に抜擢し完敗を喫した。その事がきっかけで藤波、長州、橋本、武藤、蝶野らとの戦いが始まり、新日本の新しい時代がスタートするきっかけになったと思う。」

(コスチュームの甲冑について)
「最初に見た時は象に見えた(笑)。こういうレスラーになれ、という指示なんだなと思った。(あれをかぶった瞬間にモチベーションが上がるのか?のファンの問いに)
それは別にありません(ガクッ 笑)
あの甲冑は今でも家にあります。ハロウィンの時にはあれをかぶって近所の子供たちを驚かせてます(笑)。」

(現在のプロレスについて)
「今のプロレスラーの課題は過去と対決しなければならない事です。

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 暑いのかベイダーは途中
から素顔に

米国でも同じ現象が起こっているが、80〜90年代があまりにも素晴らしい時代だったので、その頃の思い出と戦う事は並大抵の事ではありません。
昔が良かったのはレスラーに対する教育システムがきちんと出来ていた事です。あの頃はプロレス道とでも呼ぶべきものがあったのです。」
(ベイダーの口からプロレス道という言葉が出たのには驚き!)

(これまで戦った中でベストレスラーは?)
「一人には絞れないが、隣りにいる藤波、三沢(光晴)、スティング…。
但し三沢に関してはタバコの吸いすぎ、太り過ぎる前の三沢です(笑)。
スティングは試合を通じて信頼関係を育む事が出来、自分のボキャブラリーが増えるのが実感できた素晴らしい相手でした(大絶賛!)。

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 破顔一笑、ドラゴンスマイル
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 IWGPベルトとともに夢の3ショット
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 藤波伽織さんとの一枚
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 ドラゴン二世、LEONA選手と

その他、ファンが名前を挙げた高田延彦について「ノブ・タカダは良かった。」、ジャンボ鶴田についても「身体が大きくて良い選手、是非一度戦いたかった」、「ベスト10を選ぶとなると7〜8人は日本人となる」と多少の社交辞令があるとは言え、日本のプロレスラーを高評価していました。

久々の日本が余程嬉しかったのか、この日のベイダーは終始ご機嫌でマイクを離さずトークの大半はベイダーの独壇場、私は藤波選手にベイダーと戦った時の印象を聞いてみると「とにかく研究熱心で日本のビデオをよく観ており、試合の度に何か新しいモノを出してくる選手だった」との事でした。

藤波&ベイダーと言えば何と言っても忘れられないのがIWGPヘビー級王座を巡っての抗争ですが、私はわざわざその思い出のベルトのレプリカを持参(毎度の事ながらようやるね 笑)スリーショット撮影をさせて頂きました。
また、会場には藤波選手の奥様の伽織さん、御子息のLEONA選手も来られており撮影をお願いすると快く応じて頂けました。
そうそう、この日は藤波、ベイダー両選手の着用サイズのTシャツがそれぞれプレゼントされるジャンケン大会があったのですが、毎回のゆずポンイベントでわかるようにジャンケンの弱さでは定評のある(笑)私が珍しく藤波さんとのジャンケンで優勝の快挙、特大Tシャツをゲットしました。
ベイダーとのジャンケンでは残念ながら敗退しましたが、日本でのジャンケンでのお約束?「最初はグー」をベイダーが理解できなくて、皆手を出すタイミングに苦労していました(笑)。

イベント終了後、願わくばIWGPベルトに藤波&ベイダー両選手のサインを入れて欲しかった私はいい歳こいて出待ちを敢行しました。

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 翌日の試合に向けて決意を語る二人

但し前述のように大きな施設ですから何処から帰るかがわからず正攻法で1階の出入り口で待機、しかし電車で帰るらしいLEONA選手やお手伝いをしていたスタッフは出て来ましたが、いつまで待っても肝心の主役二人が姿を現しません。業を煮やして帰り際のスタッフの一人に聞くとこのビルは4階に車を停める場所があるらしく、二人共そこから帰ったとの事、しまった、逃げられた!
こうなったら大阪でのラストチャンスに賭けるしかないと誓い、この日は諦めて帰りました。

翌日はいよいよ後楽園ホールでの試合、二泊出来ない私は後ろ髪を引かれる思いで大阪に帰りましたが、この夜とんでもないアクシデントが発生したのです…。

(次回へつづく)
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