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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.575 2018.5.26  

「 IWGP 」

〜開催35周年記念〜
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 IWGPとは池袋ウエスト
ゲートパーク!?
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 元祖IWGPはアントニオ猪木のライフワークだ!

5月ももう終わり、今月16日はゆずポンのお誕生日でした。
産休中とあって今年はバースデー・イベントが無く残念でしたが、このブログ更新時点で予定日まであと二週間…元気な男の子の誕生を祈っています。
そしてゆずポンが生まれた1983年5月と言えば、今回のテーマ「IWGP」です!
若い人の前でそれを話すと「池袋ウエストゲートパーク(2000年の人気テレビ番組、略称IWGP)ってそんな昔からやってましたっけ?」(苦笑)。
馬鹿野郎!元祖「IWGP」はインターナショナル・レスリング・グランプリ…新日本プロレスが開催した、世界統一の為の歴史的大会だよ!

今年で開催35周年となる「IWGP」、その構想が最初に発表されたのは1980年12月13日、東京体育館のリング上で挨拶に立った新間寿さんの口からでした。
「世界中に乱立するチャンピオンベルトを統合、真の世界一を決めるべくアントニオ猪木が来年から乗り出します!」
この時点ではまだIWGPの名称すら無かったものの、世界中のベルト統一?そんな事が果たして可能なのか?誰もが驚き、首をかしげました。
当時も現在もチャンピオンベルトが溢れかえるプロレス界、統一するコミッションが無く自由競争であるが故、極端な話誰でもプロレス団体を旗揚げ出来るし、タイトルの新設も自由です。例えば株式会社タミヤがプロレス団体を作り、東大阪認定の世界王座を新設する事も可能なわけ(笑)。営利目的である以上、集客の為のタイトルマッチ開催は必須条件でそれがベルトが溢れかえる理由ですが、石を投げればチャンピオンに当たる業界に一石を投じたのが我らがアントニオ猪木でした。
猪木さんは新日本プロレス旗揚げ2年目の1973年12月10日、ジョニー・パワーズを破りNWF世界ヘビー級王座(後にNWA加盟時、世界の冠は外す)を獲得しました。以後、このNWFが新日本の看板タイトルとなりましたが、王座奪取の試合後にこんなコメントを残しています。
「(前略)これからはこのベルトを踏み台にありとあらゆるベルトを狙っていく。僕の目標は日本の統一であり、世界の統一だ。リアルワールドチャンピオン(真の世界王者)を目指したい。」
猪木さんは有言実行、ジャイアント馬場への挑戦を繰り返し、ストロング小林、大木金太郎、坂口征二らを撃破、可能な限り日本統一への戦いを繰り広げて来ました。悲願の馬場戦こそ実現しなかったものの、これらの戦いを通して暗黙のうちに事実上の日本代表、世界統一を口にする資格を得たのだと私は解釈しています。
しかし、冷静に考えればそもそも管理している会社が違うのですから、ベルトを統一するなんて物理的に不可能なのはすぐにわかる事です。
我々の業界に例えるならエフピコと中央化学とシーピー化成とリスパックとデンカポリマーのPSPトレイを統一するようなものですから(ほんとはやって欲しいですが 笑)。
猪木さん自身もそれは痛いほどわかっていて、後年自伝の中でこのように語っています。
「勿論、ベルトを統一するなんて実際には不可能である。しかし、そういうアドバルーンを上げる事で何かが動き出す。それが私のやり方だった。」(アントニオ猪木自伝より)
当時のインタビューでも盛んに猪木さんは「IWGPが終わった後を見ていて欲しい。必ず新しいうねりが起こるから。」とコメントしていました。

81年4月、IWGPの正式名称が決まり世界6地域のプロモーターが来日して実行委員会が発足、IWGPは本格的に動き出しました。世界中を転戦するF1グランプリからヒントを得たIWGPの名称、その名の通り世界の各地域で予選を行い、決勝リーグを世界中を回りながら行い、優勝決定戦を東京orニューヨークと言う壮大な構想が発表されました。
そして猪木さんは「乱立するベルトの統一をぶち上げた以上、自らが特定のベルトを巻いているのは矛盾する」と虎の子のNWFヘビー級を返上、それだけでなく当時新日本にあった全てのベルト(ジュニアを除く)を返上・封印してしまったのです。
プロレス団体にとってタイトルマッチが組めなくなる事は大きなリスクでしたが、ここに猪木さんのIWGPに賭ける本気度が垣間見えました。
翌82年にヘビー級に転向した藤波辰巳がWWFインターナショナルヘビー級を獲得するなどいささか矛盾はあったものの、81年5月以降の新日本は基本的にずっとタイトルマッチなしで興行を続けて来ました。しかし客足は落ちるどころか空前のブームを起こし、ベルトに頼らずとも集客が可能な事を証明して見せたのです。
しかし肝心のIWGPは難産を極めました。
81年から「IWGPアジア地域予選」と銘打った試合が不定期に組まれるようになったものの、そもそも誰がこの予選の参加メンバーなのか、リーグ戦なのか、あるいは何勝したら代表になれるのか?の説明は一切なく、唐突に「アントニオ猪木VSタイガー戸口」とか、「藤波辰巳VSラッシャー木村」といったカードが予選と銘打って組まれました。
アジア(日本)ですらこの有様でしたからそれ以外の5地域(米国、北米、欧州、中南米、中東)に至っては推して知るべし、ほんとに予選などやっているのか? 何の情報もないまま、決勝リーグの開催時期も当初予定の82年から83年にずれ込み、間延びによるトーンダウンの感は否めませんでした。
それでもようやく83年5月に開催の目途が立ったのですが、ここでまた軌道修正、世界各国でやるはずが一転、日本国内のみになってしまったのです。
これは地方のプロモーターの組合?が「日頃から新日本の興行を買って応援しているのに、これほど大きな大会を海外でやるとは何事か!?日本でやってわしらを儲けさせてくれ!」と嘆願書を出した為でした。今後の興行の事を考えると地方のプロモーターを敵に回すわけにもいかず渋々?国内開催に切り替え、「IWGP終了後、優勝者を中心に世界ツアーをやる!」と新間さんは苦しい言い訳に終始しましたが、これでスケールダウンは決定的なものになりました。

確定した出場メンバーは
(アジア代表)アントニオ猪木、キラー・カーン
(米国代表) ハルク・ホーガン、ビッグ・ジョン・スタッド
(北米代表) アンドレ・ザ・ジャイアント、ディノ・ブラボー
(欧州代表) オットー・ワンツ、前田日明
(中南米代表)カネック、エンリケ・ベラ

二年近く繰り広げられた「アジア地域予選」は、参加選手の消化試合数もバラバラで、6試合消化して6戦全勝の猪木の代表選出は当然でしたが、5戦やって2勝しかしていないカーンが入り、同じく5戦して3勝とカーンより成績が良い坂口征二は何故か落選と実に不可解、また、藤波辰巳も3勝していますが直前の長州戦で膝を痛め欠場中、そしてこの時期人気絶頂の長州力は意外な事に2勝4敗でした。これは長州がブレイクしたのが82年10月の「咬ませ犬発言」以降で、大半の予選試合をそれ以前に済ませていたからです。

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 前夜祭でのアントニオ猪木、闘魂が燃え上がる
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 批判や不満の声も上がったが…世界最強を決めるに相応しいメンバーが集結

凱旋帰国したばかりの新時代のスター、前田日明の参加は新鮮でしたが、帰国直前にヨーロッパヘビー級王者になった事から欧州代表と言うのもかなり苦し紛れ、さらに細かく言えばアメリカ・カナダが主戦場とは言えアンドレはフランス人です(笑)。
中南米ゾーンはかなり協力的で、新日本と提携していたメキシコのUWAがちゃんと地元でIWGP出場権を賭けたトーナメントを開催、カネック&ベラが選出されました。
新日本はこれまで毎年春に「MSGシリーズ」と銘打ってシングルの総当たりリーグ戦を行っていましたが、世界ツアーから一転して国内開催、そして参加メンバーの顔触れ、「IWGPとMSGシリーズ、変わったのは名称だけじゃないか?」と一部のファンやマスコミからは痛烈な批判が出ました。
紆余曲折の末、ようやく決勝リーグ戦に漕ぎつけた「IWGP」でしたが、開幕早々またもアクシデントが発生、北米代表としてカナダから参加のディノ・ブラボーが「留守宅に強盗が入って夫人が心配」との理由で一戦もせず帰国したのです。ご家族思いはわかりますが、プロならシリーズ途中からでもいいから戻って来て出場してよ(笑)!
代替選手を呼ぶ時間もなく、ブラボーの代わりにはラッシャー木村が漁夫の利を得てエントリーされました。

しかし、「IWGP」は、いざ始まると規模の縮小やアクシデントにもめげず、全国各地で凄まじい人気で沸き返りました。
日程は5月6日から優勝戦の6月2日まで、なんと28連戦(!)、つまり一日も休みの無い超過密スケジュールとなり、いかに興行人気が高かったかがわかります。
開幕戦の福岡では猪木とアンドレの優勝候補同士の公式戦が組まれ、猪木が反則負けの波乱のスタートとなりました。

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 大巨人の壁に挑むメキシコの帝王カネック、夢のカードが続出(5月9日 秩父)
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 ゆずポン生誕の日、猪木と木村の因縁対決が実現
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 アンドレの介入に怒った
猪木とホーガンは試合後
に憂さ晴らし
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 「もう一度!」と再戦を求める前田、しかしその約束は果たされず…
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 世紀の番狂わせ! ハルク・ホーガンが優勝!

ゆずポンが生まれた5月16日は三重県の津市体育館にて猪木が代打出場のラッシャー木村と対戦しフォール勝ち、中盤の天王山、5月19日大阪では猪木とホーガンが激突もアンドレが介入し両者フェンスアウトの痛み分けとなりました。
27日高松ではこの4年後、「レッスルマニア3」で9万人を集めるホーガンとアンドレがぶつかるもこれまたドロー、また、この日のメインでは猪木と前田の「最初で最後の一騎打ち」が実現、猪木が貫録勝ちしています。
リーグ戦はやはり3強の争いとなり、猪木とホーガンは37点でリーグ戦を終了、一方アンドレは34点でしたがあと一試合残しており、勝てば決勝進出(フォール勝ち5点、リングアウト、反則勝ち4点、引き分け2点のルール)で絶対有利かと思いきや、最後の公式戦(6月1日名古屋)でキラー・カーンに足を引っ張られ両者リングアウトのドロー、36点止まりで土壇場で脱落、猪木とホーガンが優勝を争う事になりました。

そして迎えた6月2日蔵前、運命の優勝決定戦、余りにも有名なこの試合
(FILE No.276,277「猪木舌出し失神KO事件」参照)に関しては、もはや書き尽くされた感もありますが、詳細は次週に譲ります。
優勝したホーガンに贈呈されたIWGPのベルトは、当時の報道によればルビー、ダイヤ、サファイアが使われた時価1億円相当のもの、地球をイメージしたそのデザインはIWGPの理念に相応しいと当時憧れました。
猪木さんの言葉通り「IWGPが終わった後の波」に期待しましたが、この直後に社内クーデターが起こり参謀の新間さんがいなくなった事が誤算でした。結局、優勝者を中心とした世界ツアーのプランも立ち消えになってしまったからです。

翌84年には第2回「IWGP」が開催されました。
この年は全12選手が総当たりリーグ戦を行い、最高得点者が前年度優勝者のホーガンと優勝を行う形式で、リーグ戦にエントリーされたのはアントニオ猪木、藤波辰巳、長州力、マサ斎藤、アンドレ・ザ・ジャイアント、ディック・マードック、マスクド・スーパースター、アドリアン・アドニス、ビッグ・ジョン・スタッド、ケン・パテラ、オットー・ワンツ、ビッグ・ジョン・クインと、第1回と比較すると見違えるほどの超豪華メンバーでしたが、私には疑問と割り切れぬ思いが残りました。
前述のように第1回ではアジア(日本)、中南米(メキシコ)のみとは言え曲がりなりにもあった予選も、○○ゾーン代表と言う概念すら無くなってしまったからです。
その意味では「MSGシリーズと変わらない」の批判はむしろ(メンバーは豪華だが)この第2回以降の方が的確でしょう。せめて新間さんがいれば、きちんと理論付けしてくれたのでしょうが…。
「IWGP」はこの後も87年まで優勝争いの大会(85はトーナメント、86と87はA、B各ブロックの総当たりリーグ)が続き、87年を最後にリーグ戦は終了、正式に「IWGPヘビー級選手権」となって87年優勝者の猪木が初代王者となり、現在も新日本プロレスの看板タイトルとして受け継がれています(5月26日現在、オカダ・カズチカが第65代王者)。
「あれ(IWGP)は新日本プロレスが作ったローカル・タイトル」…新日本がIWGP構想を推し進めていた頃、NWAこそ世界最高峰と崇めていた全日本プロレスのジャイアント馬場は非公式にそう発言、新日本を牽制していましたが、結果的には馬場さんの言葉通りになりました。
現在の新日本はIWGPインターコンチネンタル(IWGPはインターナショナル・レスリング・グランプリの略なのにIWGPインターコンチネンタルって!?)だ、IWGP・USだ、NEVERだ、挙句には6人タッグだと次から次へとベルトの粗製乱造を続けており、元々は乱立するベルトを統一する事から始まったIWGPの理念を知る私のようなオールドファンはこの状況を憂いています。
世界中に乱立するベルトの統一、そもそもそんな発想をするプロレスラーは他にはいません。絶対不可能な事に敢えて挑戦する猪木イズム、男のロマンに思いを馳せ35周年を祝ってベルトの前で乾杯したいと思います。

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1億円の輝き、IWGPヘビー級のレプリカ

次回は猪木VSホーガンに関して!

(次回へつづく)
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