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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.578 2018.6.16  

「 ニューヨークの帝王(2) 」

(前回からの続き)

大盛況の後楽園ホールの翌日は大阪大会、午前中の新幹線で帰阪しました。
前回の写真を見て頂いた通り、今回はWWFヘビー級及びWWFジュニアヘビー級ベルトのレプリカを持参していた私、何しろ2本ですから滅茶苦茶重い!
特に今回のWWFジュニアはこれまで持っていた物がクォリティ的にイマイチで我慢出来ず、仙台のベルトマニアの工藤さんとの共同制作(と言っても全て工藤さんに丸投げでしたが)、今年初めにアメリカから届いた物で、びっくりするほど完成度の高いリアルコピーですが、これがまた重い(推定5kg?)のです。
これだけ重いと持ち運びも大変ですが、妙案を思いつきました。ベルトだけに腰に巻けば良いのです(笑)。ベルトを締めて表のバックル部分を腰の方にくるっと回しスーツを着れば全く目立たず、おまけに腰痛防止効果もあり(笑)? 新幹線内では流石に外して網棚に置いていましたが、おかげで手荷物が少し軽くなりました。

大阪に到着すると地下鉄を乗り継いでそのまま南港のATCホールへ…試合は夕方ですが午後1時からは同所で藤波&バックランドのトークイベントがありました。
大阪、そして翌日には東京と二度行われた「龍王トーク」、中身はバックランドがほぼ一人で 喋りまくる独壇場でしたが(笑)、話の内容自体は大阪、東京ともほぼ同じだったので要約してレポートしましょう。

「ミネソタ州で生まれ14歳までは運動音痴だったが、アマレスと出会って人生が変わった。1973年に24歳でプロに転向し、ポケットの中に20ドルを持ってレロイ・マクガーク(プロモーター)に呼ばれてルイジアナに出て来たが、試合後にグリズリー・スミス(ブッカー)がくれたギャラはたったの5ドルで、予約していたシェラトンホテルをキャンセルした。その為の公衆電話代でさらにお金が減り、ツナ缶を買って食べてその日は駐車場の車内で寝た。
これほど悲惨な経験をしたのも自分だけだろうが(藤波が「自分ですら最初のギャラは最低25〜30ドル貰えた」と補足)最初のこの経験が、その後稼げるようになっても無駄な散財を一切せず貯金をするきっかけとなった。
翌年、テリー・ファンクが自分とディック・マードックの「咬ませ犬」(プロレス界の隠語「ジャブ」「アンダードック」と表現)要員を探しにやって来て、自分とビル・アッシュをスカウト、そのままテキサス州アマリロに連れていかれた。
アッシュはマードックに簡単にやられて咬ませ犬となったが、自分とテリーの試合はフルタイム戦となり、最後はテリーが逃げ出すほどだった。
アマリロでも最初のギャラはたったの7ドルだったが、あれは自分のやる気、本気度を試す為のテストだったのかもしれない。
その後テリーはNWA世界王者となり(75年12月)、そのテリーが王座から下りる時、ザ・ファンクス、ジム・バーネット、エディ・グラハムのNWA重鎮によるトップ会談が行われ、次期王者の有力候補として自分とハーリー・レイス、ジャック・ブリスコの三人が挙がったが、それぞれが33.3%ずつ(投票率?)と意見が割れた。
そのミーティングにニューヨークWWWFのビンス・マクマホン(先代)が加わり、彼はレイスをNWA次期王者にプッシュした。
一方マクマホン自身もWWWF王者のブルーノ・サンマルチノがスタン・ハンセン戦で首を痛めて王座から下りたがっていた事から次期王者候補を物色中だった。
マクマホンの理想は絶対的なベビーフェース、それもこれまでの善玉王者サンマルチノ(イタリアン)、ペトロ・モラレス(プエルトリカン)と違いオールアメリカン(生粋のアメリカ人)である事で、自分に白羽の矢が立った。
アトランタのオムニ・センターで2万人の前でジャック・ブリスコと試合をやった夜、そのブリスコの運転する車で、ダスティ・ローデス、ジェリー・ブリスコ(ジャックの弟)と同乗して4人で帰った。
その途中の車内で3人がマリファナを吸い出して気分が悪くなり吐きそうになって窓を開けた。立ち寄ったナイトクラブでもマリファナを勧められたが「自分はやらない」と断り、怒ってそこから歩いて帰った。
深夜に自宅に帰る予定が徒歩の為に明け方となり、出迎えた妻は泣いたが事情を話したら「よくやった」と誉めてくれた。
その時周りにこびへつらって自分もマリファナに手を出す事も出来たが、信念を曲げずその事によって運命が変わった。あの3人が「あいつはマリファナを勧めても手を出さないとても真面目な奴」とマクマホンにレポートしたらしい。
恐らくあれは自分へのテストで、3人は試験官だったのではないだろうか?
こうしてマクマホンのお眼鏡にかない合格した自分はWWF王者となり5年10か月を戦った。しかし、どんなに成功しても常に5ドルしか貰えなかった時の初心は忘れなかった…。」

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 私のベルトを手に思いを
語る藤波選手
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 龍王トークはバックランドの一人舞台?

流智美さんの司会兼通訳で始まったトークショーは、最初に「軽く挨拶を」と振られたバックランドがとめどもなく喋り続け、途中で思わず藤波選手がドラゴンストップをかけたほどでしたが、貴重な裏話に皆が熱心に耳を傾けました。
前回も触れたようにバックランドと藤波選手は全く同じ時期にMSGでヘビーとジュニアの王座を奪取、若き二大王者を誕生させる事によってマクマホンは団体を一気に改革したかったのでしょう。

スパースター・ビリー・グラハムによってバックランドのチャンピオンベルトが破壊される事件(82年)がありましたが、粉々になったパーツは拾い集めて今でも持っているとの事、その話を受けて大阪のトーク時には何と藤波選手が最前列にいた私の持参したベルトを手に取ってベルト談義が始まりました。

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 大変貴重なエピソードが聴けました。
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 良きライバルの二人、この日はこの後対決!

「自分たちが若手の時代は馬場さんのインターとかベルトに憧れたけど、おいそれとは触らせて貰えなかった。幸い自分は猪木さんの付き人だったのでUNのベルトを運ばせてもらったりしたけど、触れるのはその時ぐらいだった。」
ベルトに憧れた遠い日の思い出を語った藤波選手は、最近の王者たちのベルトを振り回したり、放り投げたり、時には凶器に使ったりする風潮を嘆いていました。かくいうドラゴンも「雪の札幌事件」(84年2月3日)の時は激高してベルトを放り投げていましたが、それはご愛敬です(笑)。

再びバックランドの話に戻ると、 「83年、アイアン・シークとの抗争アングルで挑発に乗ってコシティ(木製のトレーニング器具)を回していたところをシークに背後から襲われ肩を負傷、タイトル戦でキャメルクラッチに決められたところでTKOでベルトを奪われたが、未だにあの裁定には納得していない。その後リベンジの機会を狙っていたが、その頃からマクマホンが体調が悪く会場に来られなくなり(84年6月死去)、ジュニアによるハルク・ホーガン政権に移った為、リターンマッチの機会が与えられなかった。」

以下、質問コーナーで出たエピソード
(王者時代の印象に残る相手)
「ボブ・オートン、サージャント・スローター、ドン・ムラコ(14回も60分フルタイム戦)、ジミー・スヌーカ、パット・パターソン(4か月連続MSGで対戦)」
(自信ある得意技)
「アマレスの基礎を生かしエディ・シャーキーの下で覚えたジャーマン、ダブルアームスープレックス、レッグロールクラッチ、チキンウィング、アトミックドロップ」
(健康の秘訣)
「毎日一時間のストレッチは欠かさない。P・M・Aの精神(出た!)を保ち続ける事」
(74年の全日本プロレス初来日の思い出)
「自分は東京中心だと思っていたので、一か月の地方サーキットで慣れない食事がきつかった。」

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 大阪にてWWF二階級王者
とのスリーショット

(アントニオ猪木について)
(大阪のイベントの一時間ほど前にたまたま猪木さんから電話があり、バックランドとも話す事が出来たと藤波選手より補足)
「タッグを組んでいたので、皆プライベートでも仲が良いと思っているようだが、実は当時、猪木とじっくり膝を突き合わせて話した事は一度もなかった。 自分はマクマホンの「猪木と良い試合をやれ。」という要請に応えられたのでプロとして満足している。」
(アンドレ・ザ・ジャイアントの思い出)
「私のワイフの車に乗ろうとして頭をぶつけた(笑)。自宅に遊びに来た時はカーペットに寝転がってまだ幼かった自分の娘を掌に乗せていた(笑)。」
(藤波選手はブラジル遠征時に日本から経由地のアンカレッジへのフライト中にアンドレが機内の全てのビールを飲み尽くし他の客からクレームが出たエピソードを披露)
最低ギャラ5ドルでスタートのバックランド、では一番稼いだ時はいくらだったのか?を私が質問すると、流さんが「実はそれを聞き出そうと来日してから何度となく質問しているのですが、それだけは頑なにノーコメントなんですよ。」
お金の話に関して割合オープンな方もいますが、バックランドのように口が堅い選手も多く、「とにかく全てワイフに送金していた」と語るにとどめました。

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 大会休憩時間、ドラゴン2世、LEONA選手と

トークに続いて行われた試合では前夜タッグを組んだ2人が、この日は対角線のコーナーに立ち、2001年のエキジビション以来となる対決が実現しました。
しかも藤波のパートナーは長州力&船木誠勝で、バックランドと長州のアマレス対決、UWFでのミサイルキック事件(FILE No.520参照)以来29年ぶりとなる船木との遭遇など見どころは十分でしたが、お互い意識しすぎたのか、私が期待した藤波のキーロック(長すぎたショートアームシザース!)をリフトアップするシーンや船木のミサイルキックも出ずじまい、長州とは一度も絡む事なくいささか肩透かしでした。しかし、レジェンドたちがリングに上がってくれただけでも十分満足でしたよ。

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 試合後の藤波選手、やはり話題はマフラーの色(笑)

試合後にはグッズ売り場で前夜に続き藤波選手とツーショット撮影、ここで「おっ、今日はマフラーが赤だね!」と言われました。
墨田区のHさんの推理が的中!聞き取れなかった前夜のドラゴン発言はやはりマフラーネタだったようです(笑)。
ドラディション2018大阪大会はこちらをクリック

翌日は日曜日、ツアー最後のイベント、「闘道館」での「龍王トーク」の為再び上京した私、東京&大阪、2つの試合と2つのトーク、グランドスラムを達成した物好き?は私ぐらい、しかも今回は東京→大阪→東京と、私にとっては最悪の日程でしたが、こうなりゃもう半分は義務感です(苦笑)。
この日参加の友人から「ベルトを持って来てくれ」のリクエストが多かったのですが、とにかく重いからもう勘弁して!と言いつつもヘビー級1本だけは持参して、スリーショット撮影会では皆さんにレンタルして喜んで頂けました。

嵐のように過ぎ去った日々でしたが、この4月は日米を股にかけてバックランドと6回も遭遇してしまいました。
ひょっとしたらもうこれが最後の来日になるかもしれませんが、出来る事ならまたいつか再会したいものです。偉大なるニューヨークの帝王よ、シー・ユー・アゲイン!

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最後は東京での龍王トーク  この日も豪華スリーショット  LEONA選手とも二日続き
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