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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.581 2018.7.7  

「 6月の行事(4) 」

(前回からの続き)

東京出張で数日間を過ごすうちに月が変わり6月に突入、1日の夜は川崎・溝ノ口劇場で開催された上井文彦さん主催のトーク・イベントに行って来ました。
因みにこの上井さん、私の家の近所の鴫野にお住まいでしたが、マンションの契約切れに伴いこの5月にお引っ越し、新居を聞いてびっくり、何と国道を挟んで私んちのすぐ目の前のマンションですよ!今までも徒歩圏内だったのに今度は歩いて15秒の距離となってしまいました(笑)。

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 保永さん初のトーク・イベントは雄叫びからスタート

さて、この日のトーク・イベント、ゲストは保永昇男さんの登場です。
保永選手の略歴を簡単にまとめると、79年に新日本プロレスに入門し翌80年にデビュー、82年よりメキシコで修行し84年に帰国するもジャパンプロレス入りして提携する全日本プロレスのリングに上がり、87年には団体分裂騒動に伴い新日本に復帰、89年からはヒール軍団のブロンド・アウトローズ(後にレイジング・スタッフと改名)として暴れ、IWGPジュニア王座を獲得、98年に現役を引退しレフェリーに転向と言ったところですが、保永選手の出世試合と言えば何と言っても91年の「トップ・オブ・ザ・スーパー・ジュニア」の優勝戦でしょう。
当時のジュニア戦士8人で争われたこのリーグ戦、獣神サンダー・ライガーやワイルド・ペガサスが本命視され、失礼ながら保永選手を優勝候補に推す人は皆無でした(かくいう私も)。しかし保永選手は下馬評を覆し最終戦(91年4月30日両国)の準決勝4人まで残る大健闘、それでも準決勝の相手がペガサスだったのでここまでか?と思いましたが、フライング・ネックブリーカー・ドロップで逆転フォールを奪いまさかの決勝進出!

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 興味深いエピソードが続出

私はこの日客席にいましたが、その時のファンの狂喜乱舞ぶりと言ったら…そしてネグロ・カサスを破って上がって来たライガーとの優勝戦は客席の9割が保永選手を心から応援していました。オリジナルのクロスアーム・スープレックス・ホールドで優勝が決まった瞬間の感動は、初のG1で蝶野が優勝した時に匹敵するほどでした。
現役引退20年目にして保永さんが初めて挑むトーク・イベント、それにしても前月の栗栖正伸&長州力と言い、最近やたらとジャパンプロレスに縁があります(笑)。

保永さんは中学生の頃はプロボクサー志望だったものの、早いうちにボクシングの才能がない事を悟ってプロレスラーを目指すようになり「最初から職業としてプロレスを見ていた。」ジョニー・バレンタインやルー・テーズには憧れたものの(時は日本プロレス時代)「BIよりも永源遥、高千穂明久、ミツ・ヒライなど脇役・前座の選手に目がいった」と言うので、この頃から将来名脇役の道を歩む素養があったのでしょう。

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 途中参加の北沢さんが加わり話はエスカレート?

「俺が俺が」のプロレス界であまり自己主張をしない保永さんはむしろ異色の存在でしたが、「自分のように身体の小さい人間がプロレスラーを名乗る事自体おこがましいと思っていた。」 最初は全日本プロレスに入門しようと思ったが極道コンビ(グレート小鹿&大熊元司)との面接で「小さいし年齢もいってる(この時点で短大卒23歳)」と面接であっさり落とされ、半年後に今度は新日本にアタック、山本小鉄にも同じ事を言われたものの、こちらは拍子抜けするほどあっさりと「合宿所に入れ」とOKをもらえたそうです。
もっとも合宿所に行ったら、小鉄からの話が通っていなくて、小林邦昭が「不審な奴がいる」と事務所に電話、結局中に入れてもらえるまでに一時間もかかったとの話には笑えました(笑)。
途中から加わった特別ゲストの北沢幹之さん(元選手&レフェリー)は当時の保永さんの印象を「本当にいい子だったので、両親の躾が良かったのだろうと思った」と、自身がUWFに移った後も保永選手をUの道場に呼んだ事もあったそうです。
逆に保永さんは当時の北沢さんの事を、皆が陰で「セメント最強」と呼ぶ怖い存在で、普段は温厚なものの怒ったら手がつけられなかったと話し、「俺たち若手が北沢さんが運転するバンに乗っていた時、ストロング小林さんの赤いキャディラックを追いかけて、最後は信号待ちしている時に追い抜いて恐ろしかった」と笑えぬエピソードを披露していました(笑)。

一枚岩だった新日本プロレスが変わったのは、保永選手がメキシコでの修業を終えて2年ぶりに帰国した時、「表面的に練習はしているものの皆が違う方向を向いて心がばらばら、自分は海外にいて事情が分からなかったから戸惑った。」

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 老眼の為か、文字を見る時はこの表情

猪木さんの副業に端を発したクーデター騒動は一旦は沈静化したものの火種は残っており、長州力を筆頭とした大量離脱、ジャパンプロレスの結成は起こるべくして起こりました。
もっとも、保永選手は当初は移籍するつもりはなかったそうです。
(長州ら主力が移籍表明した直後)「背のおっきい人(=坂口征二副社長、何故か保永さんは坂口さんを名前では呼ばない)が俺たち若手を焼肉に連れて行ってくれたんですよ。
みんなは“何も心配するな、お前らは頑張って練習してくれ”と、そういう言葉を期待していたら“お前ら、潰れるまでとりあえず新日本にいてくれよ、その後は好きにしていいから”って。俺はそれを聞いて心底がっかりして、身分もわきまえず“そんな言い方はないでしょう!”って啖呵切っちゃったんですよ。こんな時こそ心配するなの一言を聞きたかったのに…俺は言葉次第では新日本に残るつもりだったんですが、それで気持ちが切れてしまって(移籍した)。」
相次ぐごたごたに当時の坂口さんも相当まいっていて思わず本音が出たのでしょうが、私は上に立つ者の言葉の重要性を改めて感じました。いつの時代もトップは孤独です(苦笑)。

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 ツーショット撮影時は
ヒールの顔に?

その他、印象的なエピソードを要約すると
(全日本プロレス)
「野外の会場でザ・デストロイヤーとシングル戦をやる時、滝のような大雨になって、いつまで待っても相手が上がって来ないと思ったらとっくに帰っていて興行が中止になった(笑)」
「デストロイヤーは腋臭が臭かった(笑)。タッグパートナーの小林邦昭さんが“お前臭いな!”と叫んだら“You too!”と言われていた(笑)」
「馬場さんにボディスラムをかけようとしたら脳天唐竹割りを叩き込まれて、本当に頭が割れたかと思うほど強烈だった。」
(馬場さんには高評価を得ていたようで)「お小遣いをもらったら、全日本の選手に“俺たちも貰った事ないのに”とねたまれた。」
(新日本と全日本の違い)
「一言で言うと新日本は相手を潰しに行くスタイル、違いを見せようと相手の技を受けない。全日本は身体の大小に関わらず公平に扱ってくれて相手の良さを引き出そうとする。」
(ブロンド・アウトローズ)
「あの時代がレスラー人生で最も充実していた。例えるなら平田淳二と後藤達俊が大砲、ヒロ斎藤がマシンガン、自分がピストルだった。」

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 今後も上井さんイベントに期待!

(アントニオ猪木)
「自分は猪木さんには嫌われていたと思う。地方会場で前田日明に頼まれてタクシーの配車係をやるようになって、合同練習にいつも30分ぐらい遅れるようになって猪木さんに睨まれていた。半分は前田の責任(笑)」。

温厚な保永さんが一度だけぶちぎれた事があると、上井さんがこんなエピソードを披露しました。それは保永さんがレフェリー転向後、静岡の会場でまだ若手の柴田勝久と井上亘の試合後の控室での事、日大アメフト部のタックル問題ではありませんが、どちらかが走って相手の背後から後頭部にエルボーを叩き込んだ事に「お前ら死にたいのか!?」と怒涛天を衝く怒りようだったそうです。保永さんもその時の事は覚えていて「彼らはUWFを観ていた世代だからああいう事をやるんだろうけど」と語るに留めたものの、「プロレスは殺し合いじゃない、やって良い事と悪い事がある」事を伝えたかったのでしょう。

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 締めもこのポーズで終了

貴重なイベント、最後はツーショット撮影会で終了しました。
このブログ更新時が目前になっていますが、上井さんのイベントは次回も同じ会場で、またまたびっくりのゲストを招いて行われますので楽しみです。

翌2日は裕美さんがゲスト出演する明治大学マンドリン倶楽部のコンサートに行く為、浜松に向かいました。

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 浜松の明大マンドリンコンサートに裕美さん出演

10時半にひかり号で浜松駅着、改札を出るといつものお馴染み追っかけメンバーたち約10人がずらっと並んでいてびっくり!一瞬私を出迎えてくれたのかと思いましたよ(笑)。
東京を出る時、ひょっとして同じ列車に裕美さんが乗っていないかとグリーン車周辺をチェックしましたが空振り、東京発で浜松に停車するひかりは1時間に1本なのでお次は11時半着ですが、こちらも不発に終わりました。
皆、一旦昼食を済ませて再度改札前に集合、今度こそ!と待ち構えていたら12時半にようやく待ち人が現れました。お急ぎだったようなのでサイン等は遠慮しましたが、しっかり握手は出来ました。

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 会場はアクトシティ浜松
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 大きな会場が超満員に

この日の会場であるアクトシティ浜松(大ホール)はプロレスでもよく使用しますが、駅からは歩いて数分の便利な場所でした。
裕美さんが歌う第2部が終了したのが夕方17時頃、追っかけ軍団たちも再び駅に集結しました。もっとも、次の東京行きひかり号が来るのが18時過ぎなので、まだまだ来ないだろうと高を括っていたら、裕美さんとマネージャーさんがすぐにやって来たので驚きました。意表を突いて17時21分のこだまに乗るようです。
駅のホームに上がると売店でマネージャーさんがビールのロング缶を2本購入、
「こだまは売りに来ないから、前は買い忘れてえらい目に遭ったの(笑)」(裕美)
皆でグリーン車に乗った裕美さんをお見送り…おっと、やばい私も乗らないと、と慌てて別の車両から乗車しました。大阪じゃなくて何でまた東京に戻るんだよ!?と周りからつっこまれましたが、すみません、翌日も東京で大事な用がありまして(笑)。
裕美さんと同じ「東へと向かう列車」に揺られていたら、素晴らしい朗報が舞い込みました…。

(次回へつづく)
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