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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.515 2017.3.25  

「 美女と毒蛇(1) 」

(前回からの続き)

3月ももう終わりと言うのにまだまだ続く2月編、殆どの人は知らないでしょうが、2月19日の日曜日は「プロレスの日」だったんですよ!
1954年(昭和29年)のこの日、日本初となる本格的なプロレス国際試合が蔵前国技館で開催され、相撲から転向した力道山と同じく柔道出身の木村政彦がタッグを結成、シャープ兄弟と戦い、街頭テレビの前に群がった多くの人々が未知のスポーツに熱狂しました。
あれから63年、大衆娯楽として多くの国民に愛された日本のプロレスは一つの文化、何でメキシコのようにこの日を国民の祝日としないのか?…先進国と言いながら我が国は相当遅れています(笑)。

そんな記念日に相応しくこの日も東京ではイベント連発、まずは水道橋のプロレスショップ「闘道館」で行われたザ・コブラのサイン&撮影会に行って来ました。

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 WWF、NWA世界ジュニア
二冠を持ってご機嫌の
ザ・コブラ

76年に新日本プロレスに入門、翌77年にデビューしたジョージ高野選手は82年海外遠征に出発、翌83年にカナダ・カルガリー地区でヒールのマスクマン、ザ・コブラに変身して暴れていました。
折しも同年8月、日本は人気絶頂の初代タイガーマスクが電撃引退し大揺れに揺れており、新日本プロレスは「二匹目のドジョウを狙って」ジョージにマスクマンとしての帰国命令を下しました。
かくして実現した「謎のマスクマン、ザ・コブラの日本上陸」(と言っても既にプロレスファンには正体バレバレでしたが)、11月3日の蔵前国技館でタイガーが返上したNWA世界ジュニアヘビー級選手権の新王者決定戦としてコブラVS、これまた謎のマスクマン、ザ・バンピートの一戦が発表されたのです。

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 二冠を持ってツーショット撮影

本番当日、白いスモークの中を神輿に担がれて現れたコブラがリングインすると先に入場していたバンピートが襲いかかり自らマスクを脱ぐハプニング、その正体はコブラとカルガリー地区で抗争を繰り広げていたデイビーボーイ・スミスでした。
奇襲攻撃ですっかり出鼻をくじかれたコブラは持ち味を出せず膠着状態が続く展開となり、起死回生を狙って場外のスミスにノータッチ式のプランチャを狙うもあっさりかわされて壮絶な自爆、これで両膝を強打して思うように動けなくなってしまったのが致命的でした。それでも苦闘の末に辛くも勝利を収め新王者となったものの、待っていたのは観客の失笑と野次、おまけに「帰れ」コールまで出る始末で、二年前(81年)のタイガーマスク衝撃のデビュー戦再現の期待は無残にも打ち砕かれたのです。

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 この日はグリーンのマスクを着用

この試合は翌週のテレビでオンエアされましたが、何とゴングが鳴って暫くすると突然、コブラのテーマ曲をBGMにスローモーションでダイジェストが流れ唐突にフィニッシュシーンになるという扱いで、良識あるファンのヒンシュクを買いました。
このテレビ朝日の馬鹿な行為により、私がこの試合の全編ノーカット版を観る事が出来たのは実に17〜8年も過ぎたサムライTV開局後の事でしたが、前回詳報のようにコブラのイベントの前々日、西荻窪のお店でターザン山本さんと一種に久々に改めてじっくり観る機会がありました。
その時に思った正直な感想…34年前のテレビ朝日の判断は正しかった(苦笑)、と言うよりやむなしだった…厳しい言い方になってしまいますが、ゴールデンタイムに全く見せ場のない試合を延々と流してもたちまち視聴者にチャンネルを変えられてしまうだけですから。

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 ヘッドロックに悶絶?

勿論私としてもきちんとした形で観たかったですが、「太陽にほえろ!」など強力な裏番組と熾烈な視聴率争いをしていたこの時代、悠長な事を言っている余裕など無いし、お茶の間のファンに対してこれから売り出していくコブラのイメージダウンは何としても避けなければならなかったのでしょう。

大注目のデビュー戦でこけてしまった例として昭和のファンに印象深いのが谷津嘉章、そして国際プロレスのグレート草津です。
80年モスクワオリンピック幻のアマレス金メダリストと言われた谷津は凱旋デビュー戦(81年6月24日)で師匠・アントニオ猪木と組みスタン・ハンセン、アブドーラ・ザ・ブッチャー組と戦う大抜擢を受けるも全くいいところがなく一方的に血ダルマにされKOされました。
さらに時代をさかのぼって、元ラグビーのグレート草津は帰国初戦(68年1月3日)でルー・テーズに挑みバックドロップで完全失神の憂き目に合いました。

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 私が手にしているのは購入したマスクの証明書

いかに大型新人とは言え、谷津にせよ草津にせよ当時の実力を考えればあまりにも無謀なマッチメイクだったと言わざるを得ませんが、二人とも素質と言う点では非の打ち所のない逸材だったにも関わらずトップ中のトップにまで至らなかったのはデビュー戦の躓きが遠因となったのではないでしょうか…コブラの話に戻ればターザン山本氏曰く「あの頃の新日本プロレスはタイガーの影を消し去ろうと必死になっていた。」
結果論ですが、タイガー引退のわずか三か月後の二番煎じはあまりにも早すぎた、歴史にIFはないもののコブラとしての登場がせめて翌年だったら、あるいは素顔のジョージ高野で凱旋していたら…必要以上に過剰なプレッシャーから解放され全く違う結果になっていたかもしれません。大事なお披露目は注目度が高いぶんリスクも大きいものですが、本人の力量だけでは何ともならない部分もあり、改めてプロレスとは難しい競技だと思います。

翌84年から新日本マットに定着したザ・コブラは汚名返上とばかりに吹っ切れたファイトを展開、小林邦昭やダイナマイト・キッドらとの激闘で、WWFジュニア王座も獲得してタイガーマスク同様ジュニア二冠王者にまで登り詰めましたが人気爆発とまでは行かず86年6月を最後に姿を消し、7月のシリーズからは突如海外から素顔のジョージ高野が凱旋帰国しました。
コブラと言えば私の中に何処までも付き纏う「悲運のマスクマン」のイメージ、当時実況の古舘伊知郎アナが付けたニックネームは「謎のアストロ・ノーツ」(宇宙飛行士)でした。華麗な空中殺法を宇宙遊泳に見立てたのでしょうが、当時の私にはぴんと来ず内心(アストロ・ノーツって何じゃあ?)と思っていたものですが(笑)、広い大宇宙をたった一人彷徨う究極の孤独な仕事のイメージは今思えばどんぴしゃり、古館さんのセンスと眼力には今更ながら感心します。

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 こちらはデビュー戦での
シルバー・マスク

その後のジョージは90年にメガネスーパーが旗揚げしたSWSに移籍したものの二年半で解散、自力でインディ団体を旗揚げしたものの徐々にマット界からフェードアウトと文字通りの流浪のプロレス人生を送り、晩年には古巣・新日本を始めいくつかのリングでザ・コブラとして限定復帰し、往年のファンを喜ばせてくれました。

そんなコブラが久々に公の場に登場、上京に合わせて(現在は九州在住との事)緊急開催が決定したイベントは告知がわずか一週間前にも関わらず熱心なファンが多数集まりました。やはりゴールデンタイム時代のスターは知名度抜群、ファンの思い入れも半端じゃありません。
ジュニア時代はアポロのような美しい筋肉美を誇ったコブラも現在はスーパーヘビー級の体形(失礼!)となってしまったもののまだまだ元気一杯、私が持参したNWA世界、WWFの両ジュニアベルトのレプリカを持って「これ持ってカルガリーで防衛戦をやって来る」とご機嫌でポーズを決めてくれました。
「また必ず来る」と約束してくれたコブラでしたが、素顔のジョージ高野選手も若い頃は菅原文太にスカウトされて俳優を目指した事もあると言う二枚目ですし、次回はマスク&素顔の二部構成でやって欲しいものです。

さて、「闘道館」を後にした私は歩いて10分程の距離のお店「You Me」へ移動、今年初のゆずポンイベントに駆けつけました。
この日はいつもより二時間早い夕方16時開始、遠方の私には嬉しい配慮ですがその為に恒例の午後からのスタジオによる撮影会は休止でいささかがっくり、しかしそのおかげで急遽決まったコブラの方に行けたのですから本当にラッキーでした。撮影会とコブラが重なっていたら地団駄踏んでいたところでしたから。

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 コブラに敬意を表して二冠を持ってツーショット
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 ご本人は何のベルトか
わかっていません(笑)

ゆずポンに「ザ・コブラのイベントに行って来ました!」と言うとキョトンとした表情、やはり知るわけないか(苦笑)。よく考えたらゆずポンはコブラがデビューした83年生まれ、おお、「美女と毒蛇」は何と同級生(?)ですよ!
前述のデビュー戦の話に戻ればゆずポンの場合、初戦(2010年10月31日 高橋奈苗戦)で株を上げた典型的な成功例でした。何しろ女子プロレスに関心の薄かった私がいつしかファンになってしまった程ですから。あの日から輝かしい「グラレスラー伝説」はスタートしたのです。
そんなゆずポンにWWF、NWA世界の二冠を持ってもらい(ご本人は何のベルトかもわかっていない 笑)記念撮影、またこの日は5日遅れのバレンタイン・イベントとあってチョコレートの詰め合わせ頂きましたよ〜(感涙)。
墨田区のHさんから知人用にサインを貰って来て欲しいと色紙を預かっていたのですが、思えば意外に色紙にサインを貰った事が少なく、しかも用意された色紙が柄にもなく可愛いハート型だった事もあって、今回は自分用にさせて頂きました。(次回必ず頂くのでスマン!)

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 ハート型色紙にサインを
頂きました。

このところ地上波ゴールデンタイム進出の多いゆずポン、来月にオンエア予定ですが、TBS系「ピラミッド・ダービー」に計4度目の登場で、またもダイエット企画に挑戦との事…この番組、ダイエットと食べ歩き企画を交互にオファーしてますね、人を太らせたり痩せさせたりモルモットじゃないっての(笑)。しかしすっかりセミレギュラー状態で嬉しい限りですよ。
またこちらは既にオンエア済みですが「とちぎ発!旅好き!」にも再登場、さらに! 地元である愛媛県の温泉のイメージガールを務める事になったそうで、4月からCMがオンエアされるそうです。しかしこちらは地元ローカルなので観られない!四国の人、誰か録画お願いします!
こうなったら是非、ゆずポンには愛媛県新居浜市の観光、否、親善大使になって欲しいですね。

ラストは恒例のゆずポンのカラオケですが、今回は昨年末に大流行の「恋ダンス」を初披露してくれました。
ゆずポンが「「恋」、歌える人誰かいますか?」と呼びかけるも誰も名乗りを挙げず…ガッキーが好きなので私もドラマ(逃げるは恥だが役に立つ)を観ていましたが、主題歌までは自信なし、星野源じゃなく星野勘太郎ならよく知っているのですが(笑)。
しかし相当練習したとの事でゆずポンの「恋ダンス」、お世辞抜きで完璧でしたよ!
流石幼少時からクラシック・バレエを習っていた(お嬢様!)と言うだけあります。
イベントはここでお開きとなりましたが、嬉しい事に別室で希望者のみのプチ撮影会が緊急決定、勿論私も大阪に帰る前に参加しました。

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 翌日は猪木様の誕生日…
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 猪木様に届け、ダーッ!

冒頭に書いたように「プロレスの日」のこの日、そして忘れてはいけない、翌2月20日は我らがアントニオ猪木様の誕生日でした。
何度も繰り返しますが何故国は19、20の両日を国民の祝日にしないのか、実態の伴わない「プレミアムフライデー」なんかより余程経済効果が期待出来ますよ!
撮影中、ゆずポンが私の赤いマフラーを巻いてみたいと言い出し、猪木様のモノマネに挑戦してくれました。
会社のホームページの性格上、その写真を掲載出来ないのが残念ですが(HPを管理している倫理委員会?が厳しいのだ 笑)、個人のfacebookやLINEで親しい方に配信してあげたら「ゆずポンに猪木さんのモノマネをさせるとは流石です。」と絶賛の声多数…いえ、決して私が強要したわけではないので誤解の無いように(笑)!
ゆずポン曰く「え〜っと、猪木さんの技って18文キックだっけ?」(笑)。
あの〜、それは馬場さんです(おまけに2文多いし、18文と言えばアンドレ・ザ・ジャイアントだ)。かつて私の前で堂々と「ジャイアント猪木」と言ってのけて地雷を踏んだ当社の某社員(君の事だよ、○○くん!)を思い出すなあ(笑)。
ゆずポン・バレンタインイベントの模様はこちらをクリック

楽しい一時を過ごして帰りましたが、近い距離とは言えベルトを2本も持ってうろうろしていた影響と、これも前回書いたように前日の足利のコンサートで全力疾走の後遺症も加わって足腰が痛くなって来ました。不死身の私も無理が効かなくなって来たなあ(涙)。
前回は奇跡的にジャンケン大会に勝ち残りゆずポン直筆の年賀状が届いて年明けから大喜びしていたものの、元来からきしジャンケンに弱いのでどうせ今回はダメだろうとはなから諦めていました(「出る前に負ける事考える馬鹿がいるかよ!」と猪木様に言われそうですが)。

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 ラブレター・フロム・
ゆずポン(笑)

しかし今回は大サービス、参加者全員にハガキをくれる事になり、月末には期待通り可愛いラブレター(笑)が届いて感動しました。

ザ・コブラ&ゆずポンの特集と言う事で、タイトルをどうしようかとずっと思案していたのですが、パッと閃いたのが「美女と毒蛇」、これだけを聞くとコブラの猛毒で自殺したとされる(諸説あり)クレオパトラを連想される方もいるかもしれませんが、内容は一切関係ありません、あしからず…。

来週はもう4月ですが、まだ2月のネタが続きます!

(次回へつづく)
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