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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
 FILE No.483 2016.7.30

「 超獣メモリアル(4) 」

(前回からの続き)

ブロディ刺殺事件の現場にいた僚友ダッチ・マンテルの衝撃的な独白は続きます…。

深夜12時頃、私は病院の受付に一度電話をしてみた。先程のアメリカ人女性がまだいてくれて「今、二回目の手術中です。」と答えてくれた。
まだ1〜2時間はかかるとの事だったので、私は彼女に礼を言って受話器を置きベッドに横になって仮眠を取った。手術が成功しても、もし逆の最悪のケースが生じたとしても明日私とトニー・アトラスは善後策を講じて一日中動き回る必要がある事は明白だったからだ。
多少まどろんでいた私を起こしたのは、ブロディの妻バーバラからの電話だった。
時計を見ると明け方の5時20分、伝言ゲームは正確に伝わっていたが。それでも私が妻に最初に連絡をしてから6時間以上も経っていた。真夜中だったからこれも仕方がない事だったかもしれない。
私はバーバラ夫人にブロディは危篤状態ではあるがまだ生きている事を告げ、とにかく一刻も早くサンファンに来るように伝えた。
バーバラは冷静な声で礼を言うと病院の電話番号を確認して電話を切った。
そのわずか10分後、悪夢のような知らせが届いたのが5時40分だったのを忘れない。
病院のアメリカ人女性からの電話だった。ブロディが死んだ、と!

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 超獣、プエルトリコにて
死す

隣の部屋に寝ていたアトラスにまず連絡し、とにかくホテルに泊まっているアメリカ人レスラー全員を私の部屋に召集した。
同じホテルにいたのはバディ・ランデル、ダニー・スパイビー、ダニー・クロファット、ロン・スター、ボビー・ジャガーズと言った面々だったが、ブロディの死を告げると皆が声を失った。まず当日(17日)夜の試合をどうすべきか、皆に意見を求めてみたが、とても試合どころの騒ぎではない。とにかく7人が協力して警察に状況を報告し殺人事件を立証する事を決議した。
この日は日曜日だったので私たちは警察署に連絡を入れるのに苦労したが、午前10時頃にはようやく連絡がついた。ブロディの遺体の処置(棺へ納める手配)をする必要もあるので、私たち7人は2班に分かれて行動する事にした。私とアトラスは警察の事情聴取の為ホテルに残る必要があったので、遺体の方はロン・スターをリーダーとする5人に任せる事になったが、ロンはバーバラ夫人とも面識があり、午後には亡骸と対面せねばならぬ夫人をケアするには最適だったと思う。
昼前にサンファン市警察から3人の刑事がやって来た。
オーランド・フィゲロア、ペドロ、クラネロ、ヘクター・キニョネス…私の手元には今も彼らの名刺がある。
彼らは前夜、アトラスの説明に薄笑いを浮かべていたポリスマンとは違い、殺人事件に至る動機から経緯に至るまでの一つ一つを漏らさず記録していた。

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 一発一発の技に説得力が
あった

私とアトラスの口述筆記を終えたフィゲロア刑事は「犯人のホセ・ゴンザレスには一級殺人罪が適用される可能性が高い。ミスター・マンテルとミスター・アトラスは今の口述筆記にサインをする意志がありますか?」と問うて来た。
この書類にサインをすると言う事は二度とプエルトリコのリングに戻って来られない事を意味し、この事件を巡ってカルロス・コロンやWWCのオフィスを敵に回す事を意味していたが、私の覚悟は決まっていた。それはアトラスも一緒だった。
私たちはためらう事なくサインをして、事件の裁判には証言者として出廷しようと誓った。
私の手元には事件から約半年後の89年1月、サンファン市警から届いた召喚状がまだ残っている。第一回の裁判は1月23〜26日まで行われ、それに発生するホテル代や航空運賃は全てサンファン市警が負担する旨が明記されていた。
だがこの公判は直前になって延期された。私の自宅にはフィゲロア刑事の手書きで「多分3月になるので再度書面にて連絡する。」と手紙が来たが、それを最後に二度とプエルトリコから郵便物が届く事はなかった。アトラスに連絡をしたら彼も同様の状況だったと言う。

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 あのブロディシャウトは
もう聞けない

それは未亡人となったバーバラさえ同じだった。
ブロディ側の証人喚問を徹底的に封じたゴンザレスは「自己防衛」、「正当防衛」を理由に91年、正式に無罪放免となり現在に至っている。
私は今でもサンファン市警からの召喚状を処分せずに保管している。
アメリカから遠征していたレスラー仲間がプエルトリカンに殺され闇に葬られた事実は絶対に許されるべきではない。

        ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

再録が長くなりましたが、現場にいたダッチ・マンテルの証言は今読み返しても生々しく胸を締めつけられるような思いがします。
補足するとブロディ刺殺犯のホセ・ゴンザレスは何と、のうのうとその日の試合に出場、ロン・スターと対戦していました。
刺殺事件は一塁側ダッグアウトのベビーフェース(善玉)側の控え室で起こった為、反対の三塁側のヒール(悪役)の控え室にはまだ伝わっていませんでした。
リングに上がってゴンザレスと向き合った時点で何も知らなかったロン・スターは後日、「知っていたら奴とはレスリングをしなかった!」と悔しさをあらわにしていましたが、恐らく事前に知ったら殺人犯と同じリングに上がる事を拒否していたでしょう。
ゴンザレスはさらに翌17日も首都サンファンから約2時間の場所、アイアグスと言う町で試合に出場、18日になってようやく弁護士二人と共にバイヤモン警察に自首して第一級殺人容疑で逮捕されましたが、19日にはプロモーターのカルロス・コロンとビクター・ジョビカが12万ドル(当時のレートで約1620万円)の保釈金を払い釈放されました。

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 バーバラ夫人と息子の
ジェフリー君は8月、
追悼イベントに来日
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 ブロディよ安らかに眠れ…
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 日本では神格的な人気

ブロディの葬儀は20日、サンファン市内でしめやかに執り行われ多くのレスラー、関係者、ファンに見送られ荼毘にふされました。
バーバラ夫人は「主人が愛した日本のファンに最後の姿を届けて欲しい。」と日本向けのマスコミにのみ死に顔の撮影を許可したと言う話が涙を誘います…。

マンテルの証言の通り、裁判への出廷要請はマンテル、トニー・アトラスはおろかバーバラ夫人にさえ届かず、地元のプエルトリカン・レスラーたちにも何らかの圧力がかかったのでしょう、誰も証言台に立つ者はいませんでした。
結局、検察側の証人として採用されたのはブロディを看た二人の医師だけで、、一方ゴンザレスの弁護側はブロディの過去のトラブルメーカーぶりを徹底的に挙げ(それは学生時代にまで言及したと言う)殺人事件の被害者をあたかも「殺されても仕方がない人間」のように仕立てあげました。
「自分は多くのレスラーたちから狂獣と言われていた悪名高き危険な男から身を守ろうとしただけ。」結局はゴンザレスのこの言い分が通って無罪が確定したのですが、冷静に考えて身体のサイズの違いはあれど同じレスラー同士、しかも片方は素手に対し、片方はナイフを持っていたわけですからこれで何故正当防衛が成立するのか、全く理解に苦しみます。

今から10年ぐらい前、あるムック本にホセ・ゴンザレスのインタビューが掲載された事がありました。
今回その本も探したかったのですが時間がなく、記憶だけでの再現となりますが、記事を書いたライターは日本人(女性)で元々ゴンザレスのインタビューが目的ではなく、別件でプエルトリコに渡りゴンザレスと親しくなったとの事でした。

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 ホセ・ゴンザレスが真相を激白!?

ブロディ事件をリアルタイムに知らない世代の彼女は、いつもスーツ姿のジェントルマン、ホームパーティに招いてくれたりと目の前の紳士がかつて人を殺したと知った時にわかには信じがたい気持ちだったそうです。
短い付き合いの間でも信頼関係が築かれたのか、ゴンザレスはオフィスを通じて「あの日本人記者になら事件の事を話しても良い。」とインタビューを快諾しました。
しかし話が核心部分に触れたところで突然ゴンザレスは激しく号泣しだしたそうです。
何とか会話を成立させようと記者が「つまりブロディに業務連絡を伝えに行ってトラブルに発展したのか?」と問うても「わかってくれ、あれは、あれは正当防衛だったんだ。」と同じ言葉と嗚咽を繰り返すばかりで、結局はまともなインタビューにはなりませんでした。
2006年に現役を引退し、表舞台から消えたホセ・ゴンザレスは果たして今何をしているのでしょうか? 人一人を殺めてしまった重い十字架を背負ってプエルトリコの何処かでひっそりと暮らしているのでしょう。
なまじ無罪となり、罪を償えなかった事がかえって今も彼を苦しめ続けているような気がして仕方がありません。

非業の死から早や28年、毎年7月になるとブロディの事を思い出します。
以前にも書きましたが冬になって若い女の子の毛皮のレッグウォーマーをを見ると「あっ、ブロディだ」と微笑ましくなります。

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 超獣、FOREVER

結局、一年中思い出してるわけですが(笑)、全盛期が短かったせいもあって余計に思い出に残る名レスラーでした。
カリブ海に浮かぶ小さな小島プエルトリコ、いつになるかはわかりませんが、いつの日か私はこの島に行くつもりです。果たしてまだバイヤモン・スタジアムがあるのかどうかはわかりませんが、偉大な超獣を偲んで手を合わせて来るつもりです。

(次回へつづく)
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