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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
 FILE No.318 2013.3.30
「 大松美術館 」

このブログの更新日から数えるといよいよ引退まで30日を切ってしまったゆずポン、そして残る試合数は(引退試合を含めて)わずか5試合(涙)…今回は3月10日に行われた四国・高松篇をお届けします。

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 この日の高松は雨模様…
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 香川名物讃岐うどん
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 この日の会場となった
高松シンボルタワー
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 地元とあってタレ幕も…

当初は新幹線で岡山まで出てそこからマリンライナーで行くつもりでしたが急遽前日の9日、所用で東京に一泊する事になってしまい、飛行機を使う羽目になりました。
10時半羽田発で12時前には初めて降りる高松空港へ、この日の高松はあいにくの雨模様、空港からはリムジンバスで高松駅前に移動してさぬきうどんで腹ごしらえをしてから駅の目の前にある高松シンボルタワーへと向かいました。
高さ151m、30階建ての高松シンボルタワーは四国で最も高いビルとの事ですがこのビルの1Fにある展示場が本日の会場です。
こじんまりとした小さなハコでしたがリングアナを務めた風香GMいわく、「前売り券が100枚ぐらいしか売れていなくてどうなるかと思った。」(因みに私もその100人のうちの一人 笑)そうです。
蓋を開けてみると満員(発表では320人)となり大変盛り上がりました。
この日の主役はもちろん最後の地元・四国(ゆずポンは愛媛出身)での凱旋試合となるゆずポン、応援に駆けつけたご両親の前で勝利を飾り最後の挨拶では感極まって涙声…感動的な締め括りとなりました。 まさしくプロレスの原点は感動です。
スターダム高松大会はこちらをクリック

 
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ゆずポンマスクも参戦?大サービスの6変化
 
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さて高松の次は大松…というわけで(猪木さんの親父ギャグが伝染した? 笑)今回は大松美術館の話題です。

このブログに相応しい高尚なテーマですね(笑)。
大松美術館はリスパック株式会社の親会社である岐阜プラスチック工業株式会社とそのグループ企業の創業者である故・大松幸栄氏(現社長である大松利幸氏のお父上)が収集された日本近代絵画や茶道具、陶磁器など多くの美術工芸品を展示する為、1991年に岐阜県羽島郡岐南町に開館した私立の美術館です。
館長は先代の奥さんである節子さんが務めていらっしゃいましたが、1991年と言えば私めはまだリスパック東京支店に在職中、以来いつか行ってみたいと思っていたのですがなかなかその機会のないまま、2009年閉館となってしまったのです。
当社には開館当時にリスパックさんから頂いた図録があり、今回改めて目を通して見ましたが、素晴らしい美術品は元より、立派な庭園もあり写真でもその素晴らしさはよくわかり、こんな事ならもっと早く行けば良かったと改めて後悔の念が湧いてきました。

私にとって文字通り「幻の美術館」となってしまった大松美術館ですが、実は閉館後も建物は存続し美術品の数々も大事に保管されており、昨年の9〜10月には「ぎふ清流国体」の開催に合わせ期間限定で一般公開が復活したそうです。
私がその情報を知った時は既に終了しておりまたしても地団駄を踏んだのでした。

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 京都で開催された
大松コレクション名品展
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 会場となった茶道資料館
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 お茶と茶菓子を頂き
ました…

しかし年が明けた今年の1〜3月、幻の大松コレクションの一部が京都にある茶道資料館に貸し出される事になったのです。
リスパックさんから招待券を頂いて観賞に出かけ、全ての品ではないものの約20年越しでのご対面となったのでした。
リスパックさんは当初、我が社の会長を招待するつもりだったようですが…うちの親父が行くわけ無いでしょ(笑)!
勿論私にしても絵や茶道に関しては全くの門外漢ですが配布された資料によると茶道具は江戸や平安、明時代のものが中心、絵画も近代と言いながらも明治や大正、昭和初期の作品が大半で風格と気品を感じさせました。
(さぞかし高いんだろ〜な〜)と思いながら(すぐにお金の事を考えるのが我ら大阪商人の悪い癖 笑)一つ一つを有り難くじっくりと拝観、そして見学後は会場の一角にある茶室で、渋いお茶と甘い茶菓子をご馳走になって帰って来ました。
私がリスパックに入社したのは1988年4月でしたが当然ながら大会社のオーナーとただの平社員に接点などあるはずもなく(「釣りバカ日誌」のハマちゃんとスーさんじゃないんだから 笑)、私が覚えている先代社長と言えば入社式などで大声で挨拶をされ率先して社歌を歌われていた姿ぐらいです。
あんなにお元気だったのにそれからわずか数ヵ月後、先代社長は病いで還らぬ人となりました。
私の入社した年にお亡くなりになるなんて何とも因縁めいたものを感じますが、今でも鮮明に記憶しているのが東京支店での朝礼の時、当時東京の事実上の責任者だった内藤さんの口から悲報が皆に知らされたシーンです。
新入社員にとって社長はまさに雲の上の人でしたので突然亡くなったと聞かされても実感が湧かずただ唖然とするだけで、狐に摘まれたような気持ちで皆と共に一分間の黙祷を捧げたものです。

この年は岐阜プラスチック工業が創立35周年の年でした。 つまり私は35周年の年に入社し、ちょうど40周年の年に退社したわけで厚かましくもちゃっかり両方のパーティを経験させて頂きました(笑)。
そして時は流れ、先代の意思を継いでご子息である大松利幸現社長が牽引して来られた岐阜プラスチック工業は今年創業60周年を迎える事となり何とも感慨深いものがあります。
できる事なら大きな節目となるこの年に、今回のように先代の愛したコレクションが再び公開される事を期待しています。

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